斎藤健一

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斎藤 健一(さいとう けんいち、1900年4月29日 - 1936年1月24日)は、労働運動家。総同盟関東労働同盟会主事。総同盟調査部長。「松岡駒吉の右腕」「戦前の総同盟を代表する論客・理論家」「労働者出身では右翼陣営随一の理論家」とされた[1]。名字は齋藤[1]斉藤[2]とも表記される。

経歴[編集]

長野県西筑摩郡日義村(現・木曽郡木曽町)生まれ。斎藤勇の兄。高等小学校卒業後、印刷工を経て[3]、1920年横浜船渠(ドック)の職工となる[1]。1921年9月の横浜ドック争議で交渉委員として活躍。日本労働総同盟(総同盟)の指導で松岡駒吉を組合長とした横浜造船工組合を結成、主事となる[3]。同年12月争議の指導者として解雇[3][4]。1923年6月新潟鉄工所争議で騒擾罪で入獄、同年12月出獄[3]。1924年の総同盟関東労働同盟会の左右対立ではその先頭に立った。1926年4月関東同盟会主事となり、以後松岡のもとで総同盟の理論家として活躍した[3]。総同盟機関誌『労働』に多くの論文を執筆し、「健全なる労働組合主義」を唱え、階級的労働組合主義(赤色労働組合主義)と企業内労働組合主義(企業ごとに縦割りされた御用組合)を批判した[1]。1926年10月総同盟中央委員、調査部長[3][5]。のち総同盟教育部長、1928年3月発刊の総同盟機関紙『日本民衆新聞』の主筆、1930年5月発刊の雑誌『労働経済』の編集長なども務めた[3]

1927年の山一林組争議では、総同盟本部から現地の岡谷へと応援に送り込まれた[6]。9月12日に会社側が工場・食堂を閉鎖した際には、「門を開けろ!」と叫びながら塀を乗り越えて中に突入し、中にいた会社側の在郷軍人や青年団員に裸にされて袋叩きにあうと、「さあ殺すなら殺せ‼」と大の字に寝そべったという(山本茂実あゝ野麦峠』)[7]。争議団が敗北・解散した9月17日に中浜藤治とともに検束された[8]。この争議中に出された声明文の多くを執筆したといわれ[6]、9月17日の争議団最後の声明書も執筆している[8]。1932年9月に総同盟、海員組合全労などで日本労働組合会議(組合会議)が結成された際には、総同盟から副議長に松岡駒吉、評議員に西尾末廣金正米吉、斎藤健一が選出された[9]

1936年1月24日、病のため35歳(数え年で37歳)で死去[1]

出典[編集]

  1. a b c d e 総同盟(戦前)の論客・齋藤健一とはどのような人物か! 友愛労働歴史館(2016年6月14日)
  2. 松本衛士『製糸労働争議の研究――岡谷・山一林組争議の一考察』柏書房、1991年
  3. a b c d e f g 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、262頁
  4. デジタル版 日本人名大辞典+Plus「斎藤健一」の解説 コトバンク
  5. 20世紀日本人名事典「斎藤 健一」の解説 コトバンク
  6. a b 山本茂実『続あゝ野麦峠』角川文庫、1982年、296頁
  7. 山本茂実『あゝ野麦峠』角川文庫、1977年、289頁
  8. a b 『あゝ野麦峠』296頁
  9. 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年

関連文献[編集]

  • 犬丸義一、中村新太郎『物語日本労働運動史 下』(新日本出版社[新日本選書]、1974年)
  • 細川修『工女の道・野麦街道』(銀河書房、1982年)