谷梅之助
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谷 梅之助(たに うめのすけ、生没年不詳)は、高知県出身の実業家。
生涯[編集]
明治38年(1905年)に東京商大(一橋大学)を卒業し、三井や三菱で働き、丸ビル内にある桐山株式店に入り、桐山株式店常務理事となる[1]。「天下の谷である」とうそぶくほどで、口八丁手八丁でたちまちのうちに桐山店の名物男として重鎮となった[1]。
当時の桐山株式店の評判を根本十郎の著書・「兜町」で「実権は三木幸太郎が握っており、かなりの思惑師らしく、現在のところは大したものではないようだが、市場を騒がせるくらいだから将来括目の要がある」と評している[1]。
昭和4年(1929年)に世界恐慌が発生すると、谷は故郷の青年らに土佐公論誌上で「自分を受け入れてくれる会社や官庁の無い場合にはたとい、工夫でも土方でもいい。その瞬間、瞬間に最善の努力を払うことだ。そうすれば、いつかは認められる時が来るだろう。こういう時勢は職業をえり好みする時ではない。どんな職種でもいいから自分のものとして努力することだ」と呼びかけている[1]。
昭和5年(1930年)1月の土佐公論では、谷のことを「満身気炎より成り立っているかと思われるほど、政治論よし、経済論よし、猥談さらによし。殊に氏の妙味はテーブルスピーチである。一度口を開いて何事か語れば哄笑、爆笑、たちまちにして相手を笑殺するが如く、また楽園に遊ばしめるような美辞麗句が流暢としてほとばしり出る」と評している[1]。