福地源一郎

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福地源一郎(ふくちげんいちろう,新暦:1841年5月13日〜1906年1月4日,旧暦:天保12年3月23日〜明治39年1月4日)は、明治時代の新聞記者、政治家、劇作家。 ペンネーム「福地櫻痴」として知られる。

来歴[編集]

幼少時[編集]

1841年長崎の医者福地苟庵の家に生まれる。幼少時から秀才と言われ、長川東洲に漢学を学ぶ。16歳の時、長崎の和蘭通辞名村八右衛門に蘭学を学んだ。1858年(安政5年)年、18歳で江戸に出て儒者の安積良斎に入門する。1859年(安政6年)水野筑後守忠徳の食客となる。まもなく小石川金剛坂下の英学者森山太吉郎私塾に寓居した。当時は、英書が読めるのは森山太吉郎、英語を話せるのは中浜万次郎の2名だけとされていた[1]

江戸幕府御家人[編集]

森山塾で学んでいた福沢諭吉が福地源一郎と知り合ったのは福澤が26歳、福地は19歳のときであった。福地は森山の推薦で、蘭学の通辞として外国奉行支配同心に召し抱えられ、30俵2人扶持の御家人となった、通弁、翻訳の仕事に従事することとなった。 1862年(文久2年)竹内下野守一行((56歳、幕府正使)の一員の定役通弁御用(通訳)として22歳で初めて渡欧した(文久遣欧使節)。このときの随行員には翻訳方御雇・福沢諭吉(29歳)、同・松木弘安(35歳)(のちの寺島宗徳)、同・箕作秋坪(36歳)がいた。1865年(慶応元年)にも再び幕府の使節柴田日向守についてヨーロッパに赴き、フランス語を学んだ。

新聞発行[編集]

幕府は瓦解し、福地は失職した。維新により物情騒然となると、日常の動きを知るニーズが高まり、新聞が現れ始めた。柳河春三中外新聞が江戸で発行されると、福地はこれに刺激されて1868年(慶應4年4月3日)から5月22日にかけて条野伝平(条野採菊)、西田伝助広岡幸助らとともに『江湖新聞』を発行した。当時のどの新聞より激しく薩長の藩閥政治を批判した。第16号の「強弱論」で「西南諸藩の専横を許すと騒乱が生じ、海外勢がわが国を侵略する原因を作ることになる。全州が和して国力を糾合し、国威を厚くすべきである」といった内容が佐幕的であるとして新政府の怒りをかった。5月18日に福地は逮捕され、国事犯として投獄された。新政府は『市政日誌』第六号に触書を載せ、「近頃多種の新聞が発行され、頗る財利を貪り、大いに人心を狂惑動揺せしめ候条、不埒の至り」として、官許のない新聞発行をこれ以後は禁止する旨を通告した[1]

福地は『新聞紙実歴』において、獄内は官軍に抵抗した兵士と軍法を犯した兵士ばかりで規律がなく飲酒喫煙は自由であった。しかし詳しく吟味せず、死罪を言い渡されたものも多かったという。そういうこともあるかと考えていたが、数回尋問されただけで、20日あまりで放免された、としている[2]。条野伝平が木戸孝允を通じての赦免運動が功を奏したと言われている。

以下続く[編集]

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  1. a b 秋山勇造(2002)『明治のジャーナリスト』五月書房
  2. 福地桜痴(1897)『新聞紙実歴』民友社