男之水門
男之水門(おのみなと)は古事記によると神倭伊波礼毘古命の兄であり軍師でもあった五瀬命が登美能那賀須泥昆古(登美昆古)との地上戦で負った傷が元で絶命した場所である。古事記では「男之水門」、日本書紀では「雄水門」と記載されている。
概要[編集]
古事記 中つ巻によると、神倭伊波礼毘古命の日向出立の時に五瀬命に行き先を相談し東へ向かうことを決め、神倭伊波礼毘古命に同行した[1]。青雲の白肩津(大阪湾の沿岸部の何処かであると想定されるがどこで有るかは今のところ未詳[2])にて、船から降りて登美能那賀須泥昆古(登美昆古)と地上戦を行った。その際、五瀬命は怪我を負うとともに戦いに敗れる[2]。五瀬命は軍師らしく日に向かって戦いを行ったことが敗戦の原因と考え、回り込んで日を瀬にして戦うことを神倭伊波礼毘古命に進言した[2]。このため、大阪湾から紀伊半島を南に下ることになったが、五瀬命の傷が重く古事記では男之水門[3]、日本書紀では雄水門[4]、どちらも読みは「おのみなと」で絶命する。この時点で軍師であり兄である五瀬命を失うことは神倭伊波礼毘古命軍にとって相当の痛手であったことは想像に難くない。
該当箇所は古事記より引用すると以下の部分である。
到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。
現代語訳は『紀国(紀伊国、和歌山県・三重県南部)の男之水門にお着きになると、五瀬命は「卑しき奴に手傷を負わされて死ぬことになるとは......」と雄叫びを上げ、その傷がもとで死んでしまいました。そこで、その水門を名付けて「男之水門」というのです。五瀬命の御陵は紀国の竈山にあります。』とある(竹田恒泰著 現代語古事記 ポケット版 187頁2-5行目より引用[5])。
また日本書紀のよると以下の部分である。
乃撫劒而雄誥之曰撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。
現代語訳は『そこで命(みこと)は剣を撫で雄叫びして「残念だ、丈夫(ますらお)が賊に傷つけられて、死ぬことは」と言われた。時の人はよってそこを雄水門と名付けた。』とある(宇治谷孟著 全現代語訳日本書紀 上巻 93頁13-15行目より引用[6])。
古事記によると五瀬命の御陵は紀国の竈山(和歌山市和田)に有る。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 竹田恒泰 『現代語古事記 ポケット版』 学研プラス、2016年6月28日 発行、1st。ISBN 978-4-05-406454-6。
- 宇治谷孟 『全現代語訳日本書紀』上巻、講談社〈講談社学術文庫〉、1988年6月10日 発行、1st。ISBN 4-06-158833-8。