河内政権
河内政権(かわちせいけん)は四世紀末から五世紀にかけて河内に新王朝が始まったとする説である。
河内政権に関する学説[編集]
河内政権については、直木孝次郎によれば、4つの異なる学説(意見)がある。
- 河内政権否定説
- 狩猟騎馬民族説
- ネオ狩猟騎馬民族説
- 自生的河内政権説
河内政権否定説[編集]
河内政権否定説は、四世紀末以降に河内に政権が移ったようにみえるが、大和政権の一時的な河内への進出であり、四世紀末から五世紀にかけてに断絶は認められないとの説。河内への古墳の移動に関しては、瀬戸内海を通じて朝鮮半島及び中国大陸への関心が向かっていくヤマト王権の政治的課題と関係し、ヤマト王権の海外展開を見据えたものであると説明する在来説である。 この説の弱点は、「イリ・タラシから「ワケ」へ変わった和風諡号の問題をうまく説明できないこと、王陣以降の歴代の王陵が河内平野にあると伝えられることをうまく説明できないことが弱点である。
狩猟騎馬民族説[編集]
大陸の狩猟騎馬民族が北九州を経由して四世紀末頃、大阪平野に上陸し、征服国家を建国したとする説である。江上波夫が唱える。古墳の形態や主要部の構造が在来の前方後円墳であり、竪穴式であることの説明がつかないことが弱点である。
ネオ狩猟騎馬民族説[編集]
九州地方の有力者がて四世紀末頃、大阪平野に進出し、新政権を樹立したとする説。水野祐、井上光貞が論者である。五世紀の河内または大和政権を構成する主要な豪族の出身地が河内または大和であって、九州と関係のある豪族がほとんどいないことが弱点となる。
自生的河内政権説[編集]
大阪平野を地盤とする豪族が瀬戸内海の制海権を握って強大となり、ついに新政権を創設したとする説である。白石太一郎、直木孝次郎、岡田精司、上田正昭が唱える。
白石太一郎の説では河内への盟主権の移動は武力による権力の奪取ではなかったとしたうえで、4世紀末ヤマト王権内部でその盟主権が大和から河内の勢力へと移動し、こうした盟主権の移動をいわゆる王朝の交替と理解するのが適切であるとする。宗教的・呪術的権威にだけでは統治できなくなり、朝鮮半島における高句麗の南下に伴う東アジア情勢の変化もあり、河内や葛城の豪族が次第に大きな瀬勢力として成長したと考える。
上田正昭は新政権を「河内王朝」、四世紀の大和政権を「三輪王朝」と名付け、王権は三輪王朝が滅んで河内王朝に受け継がれたと説く[1]。
岡田英弘は応神までの歴代天皇を創作されたものとし、仁徳から実在の天皇とする。仁徳以降以降を河内王朝と提唱する。
直木孝次郎は河内政権を考える根拠を次のように挙げている。
- (1)『日本書記』の武烈天皇の暴虐記事とそれと対応する仁徳の聖徳記事、応神に神秘的誕生記事がある。中国では王朝の終わりに暴虐な天子が現れて政権が倒れ、王朝の始めに聖天子が天命を受けて優れた政治をすることに対応しているとみる。
- (2)応神が新政権の創始者である証拠がいくつかある。応神の母の神后皇后は神の宣託を受け、この国は汝の御腹の子が統治する国であると古事記に記されている。『住吉大社神代記』や『筑前国風土記逸文』(『釈日本紀』所引)には応神を神の子とする考え方があった。古代の神話では、新しい王朝の創始者は神の子とする信仰は海外にもある。
- (3)河内政権の構成豪族には連をカバネとするものが多く、第一次大和政権では臣をカバネとするものが多い。それぞれを構成する主要豪族の性格が異なることを示している。代表的な連姓豪族は大伴、物部、中臣などである。臣をカバネとする豪族は土着性が強く、連姓豪族は独自の職掌を以て仕えているという違いがある。
- (4)応神と仁徳はもと同一人格ではないかと唱える。記紀には両者で同根の話が共通して語られている。また書記に応神の記載がない。陵の記載がないのは、応神だけである。仁徳と同一人格であれば、陵は一つだけで構わない。吉井巌のよれば、記紀に天皇の出生記事が父祖の天皇の条下に記載されるが、日本書記』の仲哀紀に応神の出生記事が見られない。
参考文献・注釈[編集]
- ↑ 上田正昭(1967)『大和朝廷』角川書店