水呑百姓
水呑百姓(みずのみびゃくしょう)とは、村に住む百姓で、田畑を所持していない百姓のことである。対義語は本百姓。
概要[編集]
水呑百姓は田畑を所持していない百姓であるため、年貢負担の義務は生じない。ただしそのため、村の運営に対する発言権も一切与えられず、村の用水や山野の資源などの利用もほとんど許されない無高の貧農である。このような水呑百姓は、本百姓として持っていた土地を生活苦から売却や質入れするなどして田畑を失って没落することでなった者が多かったと見られている。
ただし、屋敷地だけは所持していることが多く、主家から田畑や屋敷地の全てを貸与される名子や被官よりは上位の村内身分であったと見られている。経営的には本百姓の田畑を小作することで家計を独立させており、その中には下級クラスの本百姓などより裕福な者も存在した。地域によっては名子や被官と同じ内実を持つ水呑百姓も存在したとされるなど、その存在形態などは時代、地域などにより異なっている場合もあると見られている。
水呑百姓に成りすますことで[編集]
水呑百姓は無高の貧農である、とされているが、実を言うと土地を所持していながら水呑百姓の身分を有していた者も確認されている。記録では下野国芳賀郡若旅村にいた14人の水呑百姓がいたとされているが、これらは本百姓より所有している土地は確かに少ないものの土地を所有していたとある。
明和7年(1770年)に下野国河内郡上戸祭村では、本百姓に匹敵するか、それを凌駕する家屋敷を構える水呑百姓がいたとされている。記録によると水呑百姓の作右衛門という人物は、馬屋に土間、台所、物置に畳敷きの座敷を構えた22坪の屋敷に住んでいたとされており、水呑百姓=貧農という従来のイメージを全く覆すものになっている。
このように水呑百姓になった者が財を成した原因として、年貢負担の義務が無く、村政に参加する必要も無いので自由な時間が取れる。つまりその時間で田畑の耕作だけでなく、様々な生業に乗り出して農間余業を成して暮らしを向上させていったことが挙げられている。
しかし、このように税が免除されていたり公役負担すら無い水呑百姓に自らなったり、あるいは本百姓が不満を抱いたりした。このため、江戸時代後期になると本百姓と水呑百姓との間で確執が顕在化し、また領主なども水呑百姓に対して本百姓ほどで無いにしろ役務の負担を求めるようになり、また水呑百姓もこれを受け入れることで村内における自身の発言権や権利を高めていくようになった。