梅川昭美

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梅川 昭美(うめかわ あきよし、1948年3月1日 - 1979年1月28日)とは、日本の殺人犯。1979年に起こった三菱銀行北畠支店立て籠り事件(三菱銀行人質事件)の犯人である。

概要[編集]

広島県大竹市小方向村出身。当時父親は46歳、母親は42歳で姉もいたが、姉は昭美が生まれる前に亡くなっていた。幼少時代は父親が病気により働けなくなったり、両親が離婚したりと、極貧な生活を送っていたという。

事件[編集]

15歳で強盗殺人事件(大竹市強盗殺人事件)を起こすが僅か1年で出所している。

三菱銀行人質事件[編集]

1979年1月26日、30歳のとき、三菱銀行北畠支店に散弾銃を持って押し入り天井に向けて発砲。五千万円を要求。

通報しようとした銀行員を躊躇もせずに射殺。

客と銀行員数名が逃げ出たところ、偶然自転車で警官が通り掛かり、銀行に強盗が入ったことを伝える。その警官は銀行に入って拳銃を発射したが逆に梅川に射殺される。

梅川は当初は、金を奪ってすぐに去るつもりだったようだが、もう警察に包囲されていると思って客と銀行員を人質にして立て籠ったようである。

その後、通報で現場に来て銀行に入った警官も射殺。

「なんですぐに金を出さんかったんや!こうなったのはお前の責任や!」と言って支店長を射殺。女性銀行員たちを全裸にして、自分の周りに座らせて盾にしたり、「生意気なんや」と言って発砲し、被弾して負傷して死んだ振りをしていた銀行員の耳を他の銀行員に切り落とさせるなどの猟奇的な行動に走るかと思えば、子連れの母親や、妊婦、高齢者などはすぐに解放するなどの人間的な面も見せる。

また、要求した弁当やラジオなどが届けられたときには、人質を一人解放するという義理堅い面も見せた。

狙撃手は「人質の間から梅川を狙撃できるか?」と問われたが「できるが、梅川を貫通した銃弾が反対側にいる人質に当たる」として、狙撃を拒んだという。

1月28日、居眠り をしていたときに、突入した機動隊に撃たれ病院で死亡した。

その他[編集]

  • 広島少年鑑別所は「社会に放任することは極めて危険。矯正困難」という鑑別結果を出すが、1年余で仮退院となっている。
  • 梅川は、その後、三菱銀行を襲うまで10年以上も警察沙汰は起こしていないが、それは有り得ないことである。実際には、梅川が犯罪を繰り返し犯しても、警察がまともに対応しなかっただけだと推測される。
  • 梅川事件は、凶悪な人間を野放しにしたらどうなるかという教訓である。
  • 梅川が19歳の時に死んだ父親は「はよう死なんと、いまにアイツにひどい目に遭わされるわ」と知人に言っていたという。
  • 散弾銃と拳銃の火力差を見せ付けた事件であった。
  • 事件のあった銀行は翌日から営業し、その大阪式金儲け主義に警察関係者は呆れ返ったという。

関連項目[編集]