全日本医療従業員組合協議会
全日本医療従業員組合協議会(ぜんにほんいりょうじゅうぎょういんくみあいきょうぎかい)は、産別会議に加盟していた医療産別労組。略称は全医協、医協。
『東京医労連30年のあゆみ』によると、1946年4月1日に全医従、全日赤従組、都立駒込、結核予防会、慶応病院職組、北里研究所、国立東京療養所職組、岩手農業会病院などの代表が東京の日本医療団中野療養所に集まって結成した。結成大会には東京逓信病院、三楽病院、長野北信越病院、三井厚生病院、神奈川療養所、岩手、福岡、長野の代表も参加した[1]。『産別会議小史』などによると、1946年4月20日に結成された[2][3][4]。『中野区史 昭和編 2』によると、1946年3月31日に結成された[5]。組織人員は1万3千500人[6]。初代委員長は後藤励蔵(中野療養所)、副委員長は池内達郎(全日赤)、書記長は須田朱八郎(中野療養所)[1]。1946年8月の産別会議の結成に参加して加盟した[7]。1946年に看護婦・保健婦・産婆を一本化する保健師法案が具体化した際、中心となって反対運動を展開し、法案を撤回させた[8][9]。
1946年11月9日に全医協東京地方協議会を結成した。30組合3千人。委員長は北川(慶応病院)、書記長は井上健(都立駒込病院)、書記は窪田精(組合の要請に基づき日本共産党から派遣)[6][10]。2・1ストの後、東京地方組織再建の懇談会が持たれ、1948年10月13日に結核予防会従業員組合、全日本国立療養所職員組合関東地区協議会、同清瀬病院支部、東京女子医専付属病院従業員組合、東京都職員労働組合松沢病院支部、同駒込病院支部、順天堂病院従業員組合、全国立病院労働組合東京第一病院支部、愛育会研究所従業員組合の7組合の呼びかけで東京地方医療労働組合協議会(東京医協)を結成した。22組合2千118人[11][12]。
1948年の政令201号による官公労働者の団体交渉権・スト権剥奪、日本医療団の解体、1949年の行財政整理・企業再建整備に基づく人員整理、1950年6月の朝鮮戦争勃発を契機としたレッドパージで組織が大幅に弱体化した。1948年11月に全国立病院労働組合と全日本国立療養所職員組合は合同して全医労を結成し、全官労に加盟した。また都立病院の組合は都職労(自治労)、全逓医協は全逓、国鉄病院職組は国労、大学病院の組合は日教組大学部に移り、全医協・東京医協から離脱した。全医協に留まった全日赤従組では1948年に池内委員長が解雇され、第二組合が結成された。結核予防会労組では1950年に43人がレッドパージされた。全医協は1950年7月には東京地区で千人を割り、事実上休止状態となった[13]。当時の組織は450人の結核予防会労組を中心に附添婦組合、清瀬・東村山地区の療養所組合、日通病院労組などで、実質的に全医協=東京医協という状態だった[14]。
1953年4月に東京医協を再結集する形で東京地方医療労働組合協議会(都医協)を結成した。組織人員は1千915人[15]。執行委員長は磯野澄(慈恵医大)、副執行委員長は塚越兼吉(結核予防会)、堀江ハル(附添婦組合)、書記長は宇田川次保(本部)[16]。1957年8月31日に都医協は全医労、全日赤、国鉄医協、厚生連従組、民従連、予防会従組、慈大労連、新潟医労協とともに日本医療労働組合連絡協議会(日本医労協)を結成した[17]。1953年4月以降、産別会議に留まったのは全医協と全金属の2単産のみとなった[18]。全金属は1957年10月に総評全国金属との組織統一を決定した。日本医労協の結成、全金属と総評全国金属の組織統一も考慮され[17]、産別会議は1958年2月15日の第8回臨時大会で解散した。この時点で全医協の組織人員は2千778人だった[18]。都医協は1960年5月の第11回定期大会で連合体化して東京地方医療労働組合連合会(東京医労連)に改称した[19]。
出典[編集]
- ↑ a b 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、20-21頁
- ↑ 「組織・機関・主要決定事項一覧表」、産別会議史料整理委員会編『産別会議小史』産別会議残務整理委員会、1958年
- ↑ 野村拓『医療と国民生活――昭和医療史』青木書店、1981年、131頁
- ↑ 社会保障運動史編集委員会編『社会保障運動史』労働旬報社、1982年、1077頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『中野区史 昭和編 2』東京都中野区、1972年、541頁
- ↑ a b 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、129頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、23頁
- ↑ 木下安子『近代日本看護史』メヂカルフレンド社、1974年、202頁
- ↑ 植月秀子『白き流れはたえもせず――看護婦のたたかいの歴史』あゆみ出版、1980年、92-93頁
- ↑ 窪田精「文学運動のなかで――戦後民主主義文学私記-2-」『民主文学』第113号、1975年4月
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、27-28頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、130-131頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、29-32頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、35-36頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、38頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、119頁
- ↑ a b 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、41頁
- ↑ a b 「組織・機関・主要決定事項一覧表」、産別会議史料整理委員会編『産別会議小史』産別会議残務整理委員会、1958年
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、46頁