有馬頼義

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有馬頼義(ありま よりちか、1918年2月14日-1980年4月15日)は、作家。

人物[編集]

筑後藩主・有馬氏の嫡流で伯爵で政治家の有馬頼寧の長男として東京青山に生まれる。1936年、二・二六事件の時に斎藤実のところにおり、斎藤の暗殺を目にした。短編集『崩壊』を刊行し、それが問題とされて早稲田第一高等学院を放校となる。徴兵猶予がなくなり徴兵されて満州で三年の兵役に就く。帰国後1940年同盟通信社の社員となる。44年、周囲の反対を押し切って芸者と結婚する。同年、国民演劇の脚本に応募し情報局賞を受賞。

戦後は父が戦犯容疑者として拘禁され、カストリ雑誌の記者などをして糊口をしのぐ。1950年『改造』の懸賞小説で選外佳作。52年、田辺茂一と知り合い同人誌『文学生活』に参加、54年、短編集『終身未決囚』を刊行すると直木賞を受賞、作家の地位を確立する。36歳。以後主として推理小説を書く。1959年『四万人の目撃者』で日本推理作家協会賞を受賞する。

『早稲田文学』の編集に携わり、新人時代の立松和平を励ましていた。中央公論社の編集者だった澤地久枝と恋愛関係に陥り、そのため澤地は会社を辞め、離婚することになった。芸者との結婚については『夕映えの中にいた』に書いているが、その続編で、澤地との関係を描いた「中年の彷徨」は、『文學界』1971年1月から1972年5月まで連載され、本になっていない。

二・二六事件を激しく憎み、革命ではなく単なる人殺しだとする文章を「朝日新聞」に書いたことがある。天皇制を扱った「葉山一色海岸」などの作品もある。

川端康成とともに睡眠薬中毒で、1972年、川端が自殺した時は大きなショックを受けて自殺未遂事件を起こしたが、その後再起することはなかった。