日本語教育

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日本語教育とは、日本語を母語としない人(非・ネイティブ)に対して日本語を教えること。またはそれを行なう組織。機関などの総称。

概要[編集]

日本語は、日本の風俗・習慣などの「日本語環境」「日本の文化的な背景」から切り離して教えることは非常に困難であり、同時に教える側はそうしたものにどっぷりと浸かって成長してきたために、日本語を客体化して捉えることが難しい。それゆえ「日本人が日本語を母語としない人に日本語を教えることには独特の困難がある。 たとえば病院に行って「どこがどんなふうに痛いですか?」と訊かれたときに「どこが」に答えることはさほそれほど難しくはないが、「キリキリ」「ズキズキ」「ヒリヒリ」「シクシク」などは教えづらい。
あるいは人数を訊かれたときに、数詞は + 和語であれば「ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・とお」 + 漢語であれば「イチ・ニ・サン・シ・ゴ・ロク・シチ・ハチ・ク(キュウ)・ジュウ」 であって、人数だと 「ひとり・ふたり・サンニン・よニン・ゴニン・ロクニン・シチニン・ハチニン・クニン・ジュウニン」 となる。「よったり」や「ななニン」も使う例はあるらしいが、これは「どっちが正解か」といった問題ではないところが一部の規範意識の高い教師は「どっちかがマルか」「どっちがバツか」といった点にこだわり[1]があって問題化していたりもする。よって、「ガイジンらしいガイジンを演ずる養成所が日本語学校なのではないか」というありがちなネタともされることもある。
なお、日本語には一人称が多く、英語ならば「I」一つで済むところが立場や人間関係なので自称が変わるため「日本人は責任逃ればかりしているから、対等なビジネスパートナーとしては信頼できない」と感じる人もいるという。

参考文献[編集]

  • 井上純一『月とにほんご ― 中国嫁日本語学校日記』
  • 蛇蔵/海野 凪子『日本人の知らない日本語』

脚注[編集]

  1. こういうのが自閉の症状のひとつとしての「こだわり」であるが、「健常のほうが『こだわり』が強いんじゃねぇの?」とネタになっているため「健常が信じている(あるいは期待している)自閉像」を演じるという奇妙なことになっている。


関連項目[編集]


その他[編集]