日本語の起源

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日本語の起源(にほんごのきげん)は、現在の主流の学説では、オーストロネシア語族と共通の祖先から分かれたことに始まり、アルタイ諸語朝鮮語などの影響を受けつつ成立していったとする説が有力である。日本の文化にオーストロネシア語族諸民族の特徴が多くみられること、基礎語彙や音韻の類似などが根拠とされる。

オーストロネシア語族との分離[編集]

オーストロネシア語族起源説をとる場合、紀元前7000年ごろに現在の中国雲南省付近で話されていた先オーストロネシア祖語からオーストロネシア語族と日琉語族が分かれたと考えられる。この先オーストロネシア祖語は、一説によれば、紀元前9000年ごろにインドシナ半島東部で話されていたオーストロ・タイ祖語からタイ・カダイ祖語が分離してできたと考えられている。さらにこの説によれば、オーストロ・タイ祖語の起源はモン・ミエン語族との共通祖先であるオーストリック祖語であり、紀元前12000年ごろにベンガル地方からインドシナ半島北西部にかけてで話されていたと考えられている。オーストリック祖語の起源としては、アフリカ以外ほぼ全世界の言語の祖先であるボレア祖語世界祖語などが考えられている。オーストロネシア語族と分かれた直後の先日琉祖語は現在の中国福建省付近で話されており、SVO語順の屈折語であり、母音は/a/、/ə/、/i/、/u/の4種類が存在したと考えられている。その後、先日琉祖語の話者は中国大陸の東シナ海沿岸を北上し、紀元前4000年までには渤海北岸に到達したと考えられる。このころまでに母音は/a/、/ə/、/i/、/u/と、/au/が変化して形成された/o/の5種類に増加していたとみられる。

アルタイ・ツングース諸語からの影響[編集]

渤海北岸並びに満州地域にはツングース語族やアルタイ諸語系の諸民族が多く暮らしており、ここでこれらの諸民族からの影響を大いに受けたと考えられる。母音には、/a/、/ə/、/i/、/u/、/o/の他に、/e/、/ʌ/、/ɨ/の3つが加わり、全部で8母音体制になったと考えられる。文法面では、屈折語だったのが徐々に膠着語に変化し、それに伴って語順もSVOからSOVに変化した。語彙も、北方系の影響を受けた。虎は日本にはいないのにもかかわらず、大和言葉にはトラという語彙が存在するが、こうした言葉もこの時に入ってきたと考えられる。紀元前3000年を過ぎると、折からの気候の寒冷化もあって、先日琉祖族は徐々に南東に移住し始めた。8母音は多すぎたらしく、発音がよく似た母音がたくさん出てきてしまい、紀元前2500年ごろには/ʌ/、/ɨ/が/ə/に合流した。このころには先日琉祖族は遼東半島付近にまで移住していた。

朝鮮語からの影響[編集]

朝鮮語の起源は、アルタイ諸語にある可能性が高いことが分かっている。類似性から考えて、遅くとも紀元前4000年にはアルタイ諸語は朝鮮半島に到達し、独自の進化を遂げていたと考えられる。紀元前2000年ごろに朝鮮半島最北西端に到達し、紀元前1500年ごろには朝鮮半島全土に広がった先日琉祖語は、必然的にこの影響を受けることになる。紀元前2200年ごろ、すでに/o/は/u/に合流していたが、そこから語彙の大量の借用が行われた。ただし、先日琉祖語から朝鮮祖語への借用も大量に行われたため、どちらからどちらへの借用なのかはっきりしていない単語も多くある。北方の広大な大地とは異なり、朝鮮半島という狭い地域で、のちの日本民族と朝鮮民族とが盛んに交流し合ったため、敬語の表現なども徐々に発達していったと考えられる。それに伴い、それまでは動詞と形容詞で同じだった活用も、異なるものになっていった。発音も変わっていった。紀元前1500年ごろには、/a:/の母音が変化することによって/o/が復活した。これにより、6母音となった。この他、紀元前1000年ごろまでに、/ər/が/u/に、/ur/が/o/に、/ir/が/e/に変化した。

日本列島への移住[編集]

恐らく人口の増加により食料が不足したのであろう、紀元前500年ごろに、先日琉祖語話者は朝鮮半島の南、九州への移住を開始した。このときから先日琉祖語ではなく、単に日琉祖語と呼ばれる。しかし、そこにはアイヌ祖語を話していた縄文人(アイヌ祖語とは、俗にいう縄文語である。日本列島全土に縄文人が広がった後、本州以南の縄文人は弥生人によってほぼ滅ぼされたが、北海道には縄文人が残った。これがのちにアイヌ民族となった。)や、すでに稲作を始めていた中国系の弥生人がすでにいて、やはりかなりの影響を受けることになった。ただし、日琉祖語からアイヌ祖語への借用もかなりあったため、どちらからどちらへの借用であったかを特定することは難しい。一方で、中国由来の弥生人からは、「馬(ウマ)」や「国(クニ)」といった単語を借用した。これらの単語は、借用が古い(他の多くの漢語は古墳時代以降の渡来人によるものである)ため、一般的には大和言葉であると考えられている。この他、数詞も中国由来の弥生人からの影響を受けた可能性がある。なお、中国東岸を北上していた時は、のちの漢民族は内陸部に居住していたため、このときに借用されたことは考えにくい。紀元前後には、朝鮮半島の日琉語族はほぼ滅び、他方で日琉祖語は北九州の広範囲に広がった。またこのころには、連用形や終止形といった、現代の動詞・形容詞の活用ができ始めたが、活用はせいぜい2-3種類で、形も現在の6種類ではなく、連用形、終止形、未然形しかなかったと考えられている。

日本全国への拡散[編集]

2世紀初頭には、日琉祖語話者は2グループに分かれた。1グループは南方へ向かい、琉球語の祖となる琉球祖語の話者となる。もう1グループは東方へ向かい、日本語の話者となった(この段階では八丈語とまだ分岐していないため日本祖語とも呼ばれる。ただし、日本祖語という単語が日琉祖語を意味する場合もあるので注意が必要)。魏志倭人伝に記録された日本語は、ちょうどこの日本祖語の段階のものである。魏志倭人伝の時代が過ぎた3世紀末には、中央母音上昇(MVR)と呼ばれる重要な現象が始まった。/e/が/i/に、/o/が/ʉ/に変化したのである。また、同時期に/ə/が/ɔ/に変化した。畿内ではMVRは5世紀初頭には完了したが、東国や九州ではもう少し時間がかかり、その過渡期の様子を、稲荷山古墳などの鉄剣に記載されている固有名詞などから伺い知ることができる。いずれにせよ、5世紀中には全国でMVRが完了した。文法面では、4世紀には今日のような6種類の活用形が完成し、動詞の活用の種類も4-5種類にまで増えた。また、4世紀には中国から漢字が伝わり、大量の漢語が日本語に流入した。大和言葉を、漢字の音を使って書き表す万葉仮名と呼ばれる表記法も、5世紀には発明された。日本語と八丈語が分岐したのも、この時代だと考えられている。