廣渡寺 (飯能市)

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廣渡寺(こうとじ)
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所在地埼玉県飯能市八幡町16-5
山号平壽山
宗旨曹洞宗
本尊延命地蔵菩薩
創建年永和2年(1376年
別称慶雲山 廣渡寺
札所等高麗三十三か所観音札所第15番札所

廣渡寺(こうとじ)は、埼玉県飯能市にある曹洞宗寺院広渡寺とも。山号は平壽山[1]高麗三十三か所観音札所第15番札所。札所一覧の山号は慶雲山となっている[2][3]。本尊は延命地蔵菩薩運慶の作であると伝えられている[1]能仁寺菩提寺とした大名・黒田氏ゆかりの寺である[4]

歴史[編集]

前身の地蔵堂は南北朝時代にあったとされる[5][6]。境内にある板碑には建武5年(1338年)の銘があり、慶安2年(1649年)に寺社奉行に提出した文書には永和2年(1376年)に慶音が開基したとある[6][1]。『新編武蔵風土記稿』によれば、開山開基は不詳、永禄4年(1561年)に没した花渓正春が中興開山し、元和2年(1616年)に没した能仁寺五世吉州伊豚が再興して釈迦を本尊とした[7]。『武蔵国郡村誌』によれば、伊豚は慶長12年(1607年)に開基創建した[8]

慶安年間(1648年 - 1651年)に地蔵堂領3石の朱印を与えられた[5][6]。元禄15年(1702年)に良田が再興した[6][1]。この頃は武蔵七党丹党の流れを汲む前田加治氏の菩提寺となっていった。また同じく丹党の流れを汲む大名・黒田氏は、能仁寺を参拝した際には当寺にも訪れていた[6]。慶応4年(1868年)の飯能戦争の際に能仁寺、観音寺などと共に振武軍(幕府軍)が立てこもった寺の一つであり、官軍の攻撃により寺宝や古文書と共に焼失したが[1]、大正5年(1916年)に平山鳳琳によって再建された[5][6]

当寺の南に幕末から明治にかけて作られた飯能焼の窯跡、南東に八幡神社がある[9]。飯能焼の陶工の墓が当寺にある[4]真能寺村鎮守である八幡神社は『新編武蔵風土記稿』の頃は中山村にあり、当寺が別当を務めていた[10]。明治初年の神仏分離により、神官の小能志摩に別当を移管した[11]

境内[編集]

本堂、庫裡、位牌堂、典座寮、方丈、図書室、地蔵堂、総門[11]。樹齢約300年の大イチョウがある[1]。境内には、建武5年(1338年)の板碑、17から18世紀の前田加治氏の墓碑、飯能焼の陶工の墓がある[12]

年中行事[編集]

元朝祈祷、節分祈祷(2月)、彼岸御法要(春秋)、お盆施食会(8月)、中秋月見会、お寺コンサート(11月)。日曜座禅会(毎月二回)、読経会(毎月二回)、梅花流[1]

交通アクセス[編集]

所在地:埼玉県飯能市八幡町16-5

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 浅見徳男 『埼玉ふるさと散歩 〈飯能市・名栗村〉』 さきたま出版会、1990年
  • 浅見徳男 『飯能の幕末』 飯能郷土史研究会、2006年
  • 蘆田伊人編 『大日本地誌大系 ⑮ 新編武蔵国風土記稿 第9巻』 雄山閣、1977年
  • 大江千尋ほか編 『埼玉宗教名鑑』 埼玉新聞社、1978年
  • 埼玉県編 『武蔵国郡村誌 第5巻』 埼玉県立図書館、1954年
  • 埼玉県佛教会監修 『埼玉のお寺 埼玉県寺院全集』 千秋社、2001年
  • 飯能市史編集委員会編 『飯能市史 資料編Ⅰ(文化財)』 飯能市、1976年
  • 飯能市史編集委員会編 『飯能市史 資料編Ⅴ (社寺教会)』 飯能市、1982年
  • 飯能第一国民学校編 『飯能郷土史』 国書刊行会、1981年原本は1944年に飯能翼賛荘年団から発行。