小野アンナ
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小野アンナ(おのあんな、旧姓:Anna Dmitrievna Bubnova(アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ)、1890年4月1日 - 1979年年5月18日)は、ヴァイオリン教師。元武蔵野音楽大学教授。多数の日本人ヴァイオリン奏者を育成した。
経歴[編集]
- 1890年(明治23年)3月14日、ブブノワ家の三女としてペテルスブルグ(現レニングラード)で誕生。父親はロシア帝国官僚、母親は貴族出身[1]。母親の手ほどきでピアノを学ぶ。
- 1900年、ヴァイオリンを学びはじめる。最初はザイツに、のちヴァンツェコワに師事。
- 1904年、ペトログラード音楽院入学、ナルヴァルジャンに師事。
- 1911年、ペトログラード音楽院卒業。その後、レオポルド・アウアーのもとで研修。
- 1918年(大正7年)、ペトログラード大学に留学中の小野俊一と5月に結婚、教職を辞め夫と来日。
- 1919年、長男俊太郎誕生。
- 1933年、俊太郎が虫垂炎で死亡。
- 1935年、小野俊一と協議離婚。
- 1943年、毎日音楽コンクール審査員となる。
- 1946年、武蔵野音楽大学教授に就任。桐朋学園でも教鞭をとる。
- 1959年、音楽教育に貢献した功績により勲四等瑞宝章受章。
- 1960年、惜しまれつつ、ソ連アブハジア民族自治共和国スフミ市に帰国。スフミ音楽院教授に就任。姉のワルワラ・ブブノワと共に暮らす。
- 1979年(昭和54年)5月8日、スミフで逝去。
人物[編集]
- 姪にオノ・ヨーコ。
- 「小野アンナ音階教本」は、ヴァイオリン演奏者は誰もが持っている。
- 早期教育の重要性を説き、 小野アンナ音楽教室を主宰した。
- 日本の子供達にヴァイオリンを教えることを生き甲斐としていた。
- 革命の混乱のなか、教会であわただしく結婚を誓いその足でシベリア鉄道に飛び乗り、駆け落ち同然で日本を目指した[1]。シベリア鉄道の中からアンナが打った電報で家族はそのことを知る。アンナの姉のワルワラも来日するも、革命政府の方針で故国に帰れなくなりその後の36年間を日本で過ごす。
- 離婚後もアンナ・ワルワラ姉妹と小野一家は、俊一が亡くなるまで、同じ家で暮らした[1]。
弟子[編集]
諏訪根自子、巌本真理、前橋汀子、潮田益子、中島田鶴子、浦川宜也、嶋田英康、安芸晶子、久山恵子、三木鶏郎