小栗忠順

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小栗忠順(おぐり ただまさ)は江戸幕府の幕臣、旗本。勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。

概要[編集]

1827年(文政10年)、旗本小栗忠高の子として生まれる。 1860年、日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察に任命され、渡米。1862年(文久2年6月、勘定奉行。1863年(文久3年)、小栗上野介と改名した。

1863年(文久3年)、製鉄所建設案を幕府に提出、横須賀製鉄所など軍事施設を建設する。日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。1867年(慶応3)年)10月大政奉還の報に接して、これに反対する。1868年(明治1年)年鳥羽伏見の戦いで敗北した徳川慶喜が江戸に帰ると、主戦論を建議する。慶喜から遠ざけられ同年3月知行地の上野国権田村に居住する。閏4月東山道先鋒総督府軍に捕らえられ斬られた。享年42。