太田豊吉
太田 豊吉(おおた とよきち)とは、多くの中学、高校が女子生徒の制服として採用しているセパレート型セーラー服の開発者とされている人物である。
概要[編集]
太田洋品店の経営者であった太田豊吉は、福岡女学院からの依頼により1917~1921年頃まで掛けてセーラー服のトップスと、プリーツを付けたスカートを組み合わせた女学生用の制服を開発したとされている。
当時、陸軍の軍服に似た男子学生用の学生服はあり、それならば女学生には海軍の軍服に似た制服をという風潮があった。そのためワンピース型のセーラー服を採用していた女学校は既にあったようである[注釈 1]。
セーラー服が制服となる前、女学生は和服等を着ていた。和服では運動が困難なことから、活発に動き回れる制服が必要とされていたのであった。当初、セーラー服は運動着を兼ねる制服と考えられていたようである。
その他[編集]
太田が苦心して作り上げた女学生用のセパレート型セーラー服は格好良くて可愛らしく、誰が着ても似合うことから、すぐに日本中の女学校に採用された。21世紀でも通用することからも、如何に優れたデザインであるかがわかる。セーラー服は改造が容易であり、裁縫が得意な女子は手を加えて形を変えてしまうため、改造しにくいブレザー型の制服を採用する学校が増えたが、太田がセーラー服のボトムスとして採用したプリーツスカートは今でも殆どの学校で採用されている。
昭和の女子高生はセーラー服の丈を短く、幅を狭く改造した。幅を狭くすると体が細く見え、丈を詰めると上半身が短く見える分、足が長く見えたのである。プリーツスカートをどうやって長くしていたのかは謎である。制服のスカートと同じ生地でマキシ丈スカートを密造していた業者がいたようである。平成の女子高生はプリーツスカートを改造した。どう改造したのかお察しください。セーラー服が女学生の制服になる前、女学生がどんな服装で学校に行ったのか?それは、はいからさんが通るを観てお察しください。
脚注[編集]
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