北条顕茂 (顕実の子)

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北条 顕茂(ほうじょう あきもち、? - 元弘3年/正慶2年5月18日1333年6月30日[1])は、鎌倉時代後期の北条家の一族[1]。家系は甘縄流北条家。父は北条顕実[1]。母は不詳[1]。通称は修理亮[1]。兄弟に宗顕顕益顕香顕義かう首座

生涯[編集]

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞鎌倉に攻め込んできた際、鎌倉の外郭で行なわれていた攻防戦において5月18日に兄弟の顕益と共に戦死した[1]自害とする説もある[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年、146頁

参考文献[編集]

  • 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年