北条貞持

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北条 貞持(ほうじょう さだもち、? - 元弘3年/正慶2年5月17日1333年6月30日))は、鎌倉時代末期の北条家の一族[1]。家系は名越流北条家。祖父は北条時章。父は北条頼章[1]。母は不詳[1]。官途は兵庫助。

生涯[編集]

元弘3年/正慶2年(1333年)に討死とあるため[1][2]新田義貞が鎌倉に攻め込んで来た際に戦死したものと推測される。

父親は頼章とあるが、この頼章は12歳で死去しているため[1]、本当に父親なのかどうか疑問が持たれる。また頼章は建長8年(1256年)8月に死去しているため、貞持の享年は78歳前後という老齢だったと推測でき、だとするとこの老齢で戦場に参加していたのかこれもかなり疑問である。

脚注[編集]

  1. a b c d e 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年、183頁
  2. 「兵庫助、元弘三年五月十七討死」とある。

参考文献[編集]

  • 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年