ヴェスヴィオ山

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ヴェスヴィオ山
1822年のヴェスヴィオ山の噴火.jpeg
1822年のヴェスヴィオ山の噴火
標高1,281 m
所在地イタリア国旗.png イタリア
山系カンパーニア火山弧
山の種類成層火山
最新噴火1944年

ヴェスヴィオ山イタリア語: Il monte Vesuvio)は、イタリアにある活火山

噴火史[編集]

有史以前にも何度か破滅的な噴火を起こしているらしい。

有史以降の著名な噴火は2回あり、1度目はローマ帝国時代の大噴火で、西暦79年8月24日のプリニー式噴火による大噴火に伴う翌25日朝の火砕流土石流により麓にあったポンペイが全滅、住民約2,000人が全員死亡した[1][2]

皮肉にもこのポンペイは紀元前217年に起こったヴェスヴィオ山の大噴火から復興された都市であり、ヴェスヴィオ噴火から興った町がヴェスヴィオ噴火で滅びたことになる。

植物記』を著したことで有名な大プリニウスもこの噴火により命を落としている。なお、大プリニウスはポンペイに在住していたのではなく、ポンペイ噴火直後にローマ帝国の役人として被害状況を現地で知るためにポンペイに上陸、その後(恐らく)有毒硫黄ガスを含む火砕流に巻き込まれ随伴者共々死亡したものと考えられているが、諸説ある。

大プリニウスの死体を発見し後世にその死の状況を伝えたのは彼の甥で養子の小プリニウスであり、この2者の名を取ってヴェスヴィオ山のような軽石と火山灰を大量に吹き上げる噴火の形式をプリニー式噴火と呼ぶ。

また、ポンペイはこの噴火で壊滅したが、瞬時に超高熱の火山灰に埋もれて窒息死または焼死した住民たちは遺体周囲を覆い尽くした火山灰が硬化、その後遺体が消失することで空洞化した状態で2,000年近く保存されており、現代のポンペイ跡地では全住民に近い数の石膏像として死亡直後のその瞬間を現代に伝えている。

特に保存状態が良いものは絶命の瞬間の表情までもがはっきりと伺い知れるほどに精細であり、関連画像をググるときは十分に注意されたい。

なお、このポンペイの悲劇は小説、絵画、音楽、映画など様々な媒体の創作材料ともなっている。

2回目の大噴火はポンペイのときよりも更に噴火規模が巨大で、それに伴い死者が多く、それは1631年に発生した噴火で熱雲により死者3,000~4,000名を数えた[3](死者数に関しては諸説あり)。

このほか、432年にも大噴火を起こしているらしいが詳細資料がない。また、現時点で最新の噴火である1944年3月22日の噴火の際には近在のサン・セバスティアーノ村の過半域を噴出火山灰で埋没させる被害をもたらした。

脚注[編集]

  1. 小山真人. “西暦79年にイタリアのヴェスヴィオ火山で起きたプリニー式噴火”. 静岡大学防災総合センター. 2015年4月30日確認。
  2. ベスビオ火山 79年噴火 (イタリア)”. 財団法人消防科学総合センター・消防防災博物館. 2015年5月1日確認。
  3. 早川由紀夫. “噴火に備える(長期予知)Long-term predictionPDF”. 群馬大学. 2015年5月2日確認。