ニカラグア

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国旗

ニカラグア: Nicaragua)は、中央アメリカ共和国

概要[編集]

以下は外務省ホームページに基づく[1]

歴史[編集]

1502年にコロンブスがこの地の北端に第4回航海の際訪れたという[1][2]。1573年、グアテマラ総督領に編入[1][2]

1821年、独立。その後の1823年に周辺諸国と中央アメリカ連邦を形成したものの、1838年には内戦で対立が深まった連邦は解体し[3]、完全独立[1][2]1846年レオン及びグラナダの中間にあった村、ビラ・レアルに議会が置かれ、現在の名前、マナグアに改称された[4]

1840年代後半からの保守党の自由党に対する優位はウィリアム・ウォーカーを出現させた。彼は自由党に誘われ、1855年6月、ニカラグアに上陸。4が月後、保守党の根拠地、グラナダを占領するに至った[4]。彼は自由党の傀儡政権に自分を軍の司令官に任命させると、ほどなくして1856年には彼は大統領に就任。公用語を英語として新憲法を発布したものの、1857年には中米連合軍に攻められ、米国に保護されながら帰国した[4]

その後20世紀初頭にかけてアメリカはニカラグアへの影響を強めていた。1927年アウグスト・セサル・サンディーノ将軍は保守党と自由党の内戦が終結後、アメリカ海兵隊に対し攻撃[5]。戦闘を続けたものの、徐々に孤立。バウティスタ・サカサに政権をゆだねたのち、引退し、農場を開いた[5]

しかし、サカサはなんら力を持っていなかったため、代わりに国家警備隊司令官のソモサの影響力が増し、ついにはサンディーノを殺し、サカサを辞任させ、自ら大統領に就任。その後「ソモサ王朝」と呼ばれるほど親子3人(父、長男、次男)が権力を握り、1979年にサンディニスタ革命 (ニカラグア革命)で倒れるまで一部時期を除き続いた[1][2][6]

しかし、その後も政情は安定せず、「コントラ・レボルシオン」と呼ばれるアメリカ影響下の反革命軍が蜂起。しかし、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンの思惑とは逆にニカラグア人民の団結を招き、また中南米4国の首脳らがパナマのコントラーダ島に集まって中米諸国の紛争を解決すべく、コントラーダ提案を提示。ニカラグアは受け入れたが、米国は受け入れず、結局、双方を財政危機が襲い、その後の1988年に停戦協定が結ばれた。

その後も政情は安定しない。

国民[編集]

  • 白人17%、メスティソ70%、先住民5%、黒人8%。
  • 黒人はジャマイカからの移民および季節労働者が主体で、カリブ海に面した低地に集中している[7]

脚注[編集]

出典[編集]

関連項目[編集]