ドミトリー・コンダコフ
ドミトリー・コンダコフ | |
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1914年〜1917年ごろ撮影 | |
生誕 | 1893年 ロシア帝国 カルーガ県ジズドラ郡リュディノヴォ |
死没 | 1964年 |
ドミトリー・ニコラエヴィチ・コンダコフ(Дмитрий Николаевич Кондаков、1893年 - 1964年)は、ロシア帝国の軍人、革命家、ソビエト連邦の政治家。
生涯[編集]
ロシア帝国カルーガ県の大きな工業村リュディノヴォ (現在は市) で農民の家に生まれた。
学校卒業後はリュディノヴォ鋳造工場と機械製造工場に就職した。最初は配達員や取り付け工の見習いとして働き、後に鋳造労働者や機械工となった。
1912年にボルシェヴィキ党に入党。翌年に、リュディノヴォ・ボルシェヴィキ組織委員会の一員に選出され、1914年に労働者のストライキを扇動した。
1914年の秋頃に、彼は海軍に召集され、クロンシュタットで党との連絡を取り合い、秘密の指示に従いながら第一次世界大戦に参加した。
2月革命時の反戦運動に積極的に参加したため、1917年3月にクロンシュタット・ソビエトの一員として選出された。(同時期にクロンシュタット・ボルシェヴィキ組織委員会にも一員として選出)
七月蜂起にも参加し、蜂起が臨時政府によって弾圧された際、党中央委員会の指示により、コンダコフと共に活動していた党新聞編集者のピョートル・スミルノフと一緒にペトログラードに行き、ヤーコフ・スヴェルドロフと会った。2人はスヴェルドロフからクロンシュタットの情勢について話した後、「レーニンのパンフレットを第6回党大会まで急ぎで印刷してほしい。」との指示で原稿を貰い、急ぎで同地に帰還して印刷した後、党指導部にパンフレットを渡した。
十月革命の際は、クロンシュタット軍事革命委員会とペトログラード軍事革命委員会の銃弾や物資の整理をした。
ロシア内戦時は党直属の赤軍パルチザンとして活動し、ユデーニチの北西軍や西側諸国の連合軍と戦い、内戦終結後は第8回及び第9回党大会の代表として参加した。
1964年に亡くなるまで、レニングラード、シベリア、モスクワでソビエトと経済関連の仕事をしていた。[1]
逸話[編集]
無私無欲で党に献身的、疲れ知らずだったので、同期の兵士たちから高く評価されていた。
脚注[編集]
- ↑ “КОНДАКОВ Дмитрий Николаевич (1893-1964).”. www.istoriacccr.ru. 2022年9月21日確認。