トーク:本門寺五重塔

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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時代区分(江戸時代の始期)[編集]

編集合戦のようになっていますが、1607年(慶長12年)が「建築史では桃山時代」というためには、最近の根拠資料が必要と考えます。安土時代の終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などの説があり、本郷和人氏は1600年説を取っています。歴史学者は1603年説が多数と思います。「豊臣氏が滅亡」したのは建築のできごとではないので、1615年説は説得力に欠けています。江戸時代の始まりに1615年説を取る歴史学者はほとんどいないと思います。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-01T17:36:22 (JST)

文化庁では本門寺五重塔を桃山時代としています。こちらを参照ください。http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/144355 --かやのかすみ (トーク) 2019-04-01T21:52:36 (JST)

  • この記載はあてになりませんよ。他の信頼できるもの(文献)を探しましょう。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-01T23:51:21 (JST)
  • 日本建築史と題した多摩美大のサイトでは「本門寺 五重塔」は「江戸時代」になっていますよ。これは決定打ではないにせよ、建築史で江戸時代としている証拠にもなります。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-02T00:17:05 (JST)
  • 本門寺について書かれたものではなく、決定打になるのは、一般に1607年(慶長12年)が江戸時代でないと書かれた信頼できる文献が必要です。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-02T00:12:33 (JST)
  • 以下の記述あり。立正大学のサイトに「中世は鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代」「近世は、江戸幕府の創立(1603 年)から明治維新による東京遷都(1869 年)まで、あるいは関ヶ原の戦い(1600 年)から大政奉還(1867 年)に至る間をさす。」つまり、1607年は「近世=江戸時代」となります。これは歴史学では一般的な見解と思います。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-02T00:32:09 (JST)
  • 参考文献の書き方もいかにも素人らしいですね。修理報告書は、建築工法の調査報告であり、時代区分を厳密に検討したものとはいえないので、時代区分の根拠にはなりません。しかも、17年も前のもので使えません。歴史学でも昔は「近世=1615年説」もありましたが、今は消えています。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-02T09:48:08 (JST)
    • 横槍かやのかすみさんが提示なさられたサイトは、こちらにも記述されているように文化庁と国立情報学研究所が企画、運営を行っています。そのため、信憑性は充分にあるのではないでしょうか。残念ながら多摩美のページは確認できませんでした(所謂404です)が、確認できた立教大については通常の日本史の時代区分についての話であり、建築史においては別の区分が存在する可能性もあります。この点から、建築工法の調査報告をもって時代区分の根拠とすることも可能であるように思います。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-26T22:46:42 (JST)
      • ご指摘のサイトの記述の信頼性は、かなり怪しいと思います。「文化庁と国立情報学研究所が企画、運営」しているサイトだからといって、時代区分の記述まで正しいという保証はありません。またご指摘のサイトには文責もありませんし、その時代区分にした理由や根拠の説明もありません。貴殿の言い分は、役所などの権威にただよりかかっているだけです。「建築工法の調査報告をもって時代区分の根拠」とするなど、合理的な根拠がみえません。なぜなら、時代区分を十分に論証せずに、「建築史の古い通念」に寄りかかっているだけに見えます。それに建築史と歴史学とで、時代区分が違うのはそもそもおかしいのです。多くの歴史年表では1603年から江戸時代としています。これはかなり一般的な時代区分です。ですから解決策として、両論があるときは、中立的な表示(○○時代と言明せず、1600年から1610年の間など)が最善と思います。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-26T23:08:56 (JST)
  • 文化庁の時代区分をいうなら、「文化庁重要文化指定目録の基準」を見るべきであり、これによれば、1603年以降を江戸時代としています。(多摩美のような「消去工作」をされないように、魚拓にしています)--Eifuku21 (トーク) 2019-04-26T23:32:00 (JST)
    • なるほど。「合理的根拠が見えない」というご批判も当然です。しかしながら、貴殿も「建築史と歴史学とで、時代区分が違うのはそもそもおかしい」という主張の合理的根拠を示してはいません。両論併記が最善の策であることに異論は無いです。ついでに、「消去工作」とは何のことですか?一気に返答してしまったせいで文章のまとまりはありませんが、何卒ご容赦下さい。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-27T15:38:41 (JST)
      • 江戸時代か桃山時代かの区分というある意味「無駄なエネルギー」を使わないために(終わりのない議論になる)「○○時代」という表記にしないという選択をし、両者が歩み寄った形です。当方もむろん譲歩しています。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-27T16:01:40 (JST)
      • 「建築史と歴史学とで、時代区分が違うのはおかしい」という合理的根拠は、時代区分とは同じ時代の同じ日本人の活動をその時代の代表的な出来事(江戸時代でいえば、関ケ原合戦とか、幕府の成立とか)で代表させて、「時代区分」として表しているのでありますから、違いが生じる理由はないという主張は合理的であると考えます。その時代の人は同じ日本列島という島に住み、同じ空気を吸い、徳川将軍を天下人と考え、和食という食べ物を食べているからです。「違う」というなら、その当時、たとえば徳川とは別の支配者がいた(当時の天皇は支配者ではありません)、本門寺五重塔は日本列島に建てられていない、大工は日本食をたべていない、などといった根拠があれば示してください。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-27T16:08:58 (JST)
        • 確かに時代区分は各時代の人々の活動をその時代の代表的な出来事に代表させたものです。しかし、安土桃山時代と江戸時代を分けているものは政治体制の変化であり、生活様式や文化ではありません。世相の代表にならなかったジャンルが旧時代のままであることは充分に考えられます。また、歴史というものは境界線でスパッと分けられる類のものではありません。「イイクニ/イイハコ」論争がそのことをよく物語っています。ましてや、1600年代ともなれば幕藩体制も確立されておらず、豊臣家もまだ存続していました。江戸時代に特有の文化が形成されたのは早くとも全国統一後と考えるのが順当でしょう。「同じ日本列島という島に住み、同じ空気を吸い、徳川将軍を天下人と考え、和食という食べ物を食べているから」文化の違いは存在しない、という論理では元禄文化と化政文化の違いが存在する理由も説明できません。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-27T21:32:37 (JST)
    • 歴史は「境界線でスパッと」切れないとはいうものの、歴史学では境目はあると考えられています。原始時代から、現代まで連続的で何の切れ目もないと貴殿がいうのであれば、それは間違いでしょう。「元禄文化と化政文化の違い」はあっても、どちらも同じ江戸時代ですし、元禄と化政とで時代区分が違うわけではないので、まったく反論にはなりません。明治時代でも、前半、中間、後半では、それぞれ文化や経済はかなり異なりますが、歴史学ではすべて「明治時代」として区分されており、それに異論を話さむ人は(貴殿を除けば)、ほとんどいないでしょう。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T01:00:33 (JST)
    • 「豊臣家はまだ存続していた」言われますが、貴殿は歴史の実態をみていません。関ヶ原後に家康が大阪城に乗り込んだ時、秀頼は「私は天下人をおります。徳川様は私(秀頼)に変わり天下人になってください」と言ったのです(本郷和人(2018)『軍事の日本史』)。また本郷氏は家康が意のままに、領地を大名に与えている(加藤清正など)事実を指摘しています。これは家康が全国の「主従的支配権」を完全に掌握したことを意味します。領地の分配に当たり、家康は秀頼の意見をまったく聞いていません。また1603年にはそれまで豊臣家が押さえていた流通拠点から、家康が税を取るようになった事実もあります。さらに秀頼は222万石あった領地を65万石余に減らされ、単なる一大名になっています。2回あった大坂の陣で豊臣に味方したのは豊臣方がかき集めた浪人だけで、大名は徳川の味方になっています。つまり、徳川と豊臣の「公儀二重体制論」は、関ヶ原以後は成立しないのです。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T01:23:20 (JST)
      • 「徳川と豊臣の『公儀二重体制論』は、関ヶ原以後は成立しない」という話には納得すると共に、素人が要らぬことを言うものではないな、と反省しております。そういえば忘れていたので今更ながら回答しますが、建築工法の調査報告を時代区分の根拠としても良いと考えた理由は、この議論の俎上に上がっているのは建築史における時代区分であるため、建築様式をもって時代区分の根拠とするのが順当であると思ったからです。境目を設定できるということに異論はありませんが、その境目の前後で世の万物が異なっていると考えるのは不自然でしょう。「『元禄文化と化政文化の違い』はあっても、どちらも同じ江戸時代ですし、元禄と化政とで時代区分が違うわけではない」のは確かです。私も、その点を強調したかったのです。元禄と化政はどちらも江戸時代です。どちらの時代にも日本人は日本に住み、同じ空気を吸い、徳川の支配体制の下に生活し、現代において「和食」と呼ばれている食文化を概ね共有していました。確認しますが、「その時代の人は同じ日本列島という島に住み、同じ空気を吸い、徳川将軍を天下人と考え、和食という食べ物を食べているから」文化の違いは存在しないという論理で、これが説明できますか?--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-29T15:08:21 (JST)
    • 時代区分とは別のことであれば、日本人の感性により説明できると考えます。なぜなら、時代は異なっても、萬葉集や新古今の世界を現代人でもすっとそのまま理解できるからです。『元禄文化と化政文化の違い』はシェイクスピアと近松のマハラノビス距離に比べると大きくないことから証明できます。全体的にはご納得いただいたと思うので、無駄な(私から見ればですが)ディスカッションはこれで終了としたいと考えます。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T17:51:44 (JST)
      • 忘れていましたが、こちらの時代区分を出典とするのはナシでしょうか?--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-29T15:08:21 (JST)
        • 頂いたリンクは「古い思考」をそのままにしているので、参考にならないと考えます。区分の根拠となる理由などを何も書いていません。これを書いた人は固定観念を直さなければなりません。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T17:54:52 (JST)
          • なるほど。しかし、(信頼性を犠牲にして)ウィキペディアのjawp:安土桃山時代を参照すると「美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。」との記述があり(2019年4月29日19時現在)、少なくとも両論併記の価値はあるように思います。これについて、お手数ですがコメントをお願いします。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-29T19:09:07 (JST)
    • 古い観念に基づいて書いてます。「活発な社寺建設」は秀吉がため込んだ財宝を放蕩息子のように使っただけで、そのことが豊臣の体力を弱め、また幕府の不信感を買ったことを忘れてはいけません。新しい時代の息吹のまったく感じられない内容ですから評価できませんし、時代区分を変える力はありませんでした。貴殿の教育係ではないので、この辺で終わりにしましょうか。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T19:21:05 (JST)
      • ここで問題にしているのは1607年頃が文化史において何時代に相当するかであって、なぜ社寺の建築が活発に行われたかではありません。無論、その結果について論じているわけでもありません。何の信憑性もないウィキペディアから引用した私が言うのもなんですが、古いというのなら「美術史においても江戸時代は1607年以前にスタートしている」という根拠を示してください。このままでは、あたかも貴殿が「自分と異なる意見を全て『古い』と頭ごなしに否定する偏狭な輩」であるように誤解されかねません。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-29T19:45:09 (JST)
        • ですから、美術史だけが異なる時代区分を適用する理由がないのではないか、とずっと言っているわけです。異なる理由があるのなら、貴殿が提示するべきでしょう。「偏狭な輩」などというのは当たりません、根拠のないことで、貴殿は名誉棄損するわけですか。意味のない議論を続けてもs何も生まれません。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T20:17:00 (JST)
      • 意味のない議論をいつまでも続け、個人攻撃をするようになり、貴殿は「コミュニティを消耗させる利用者」になりかねません。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T20:22:46 (JST)
        • 私がそのように思っているわけではありません。このような誤解を招きかねませんよ、という風に言っただけです。誤解を招いてしまったのであれば、申し訳ありませんでした。さて、「美術史だけが異なる時代区分を適用する理由がないのではないか」というご意見に対する反論は、ウィキペディアの要約のようになってしまいますが、豊臣家の文化的影響力がまだ残っており、信長や秀吉が好んだ美術の様式が受け継がれていたこと、(コトバンクですが)世界大百科事典など、安土桃山時代を政治的には1600年まで、文化的には1615年までとしている資料があることが挙げられます。いずれも根拠としてはかなり弱いものですので、例えば「江戸時代(安土桃山時代とする説もある)」程度の記述があれば満足です。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-29T21:06:14 (JST)
      • それでは、具体的な証拠をひとつあげましょう。黒田鵬心『日本美術史』1934は少し古い資料であるものの、桃山時代とは「織田勃興から秀吉滅亡まで」としています。美術史では、秀吉の死(1598年9月18日)をもって、桃山時代の終わりとしています。これで十分でしょう。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T21:10:48 (JST)
        • そうでしたか。やはり、「安土桃山文化=1615年まで」説は、万人が支持するものではないようですね。少し負け惜しみをさせていただきますと、貴殿は少し前、かやのかすみさんが提示されたサイトに「17年も前のもので使えません。」と仰いました。なぜ17年前がダメで85年前がOKなのですか?--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-29T21:18:24 (JST)
      • 17年前といっても、きちんとした考証がないからです。「85年前がOK」とは言っていませんが、たまたま手元にあるので言及しただけで、すべてに満足している文献ではありません。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-29T21:22:17 (JST)
        • そういうことですか。「17年も前のもので」あるという点以外にも理由があったのであれば、反論はありません。しかし、本門寺の公式サイトでは「江戸建築が確立する前の桃山期の建立」と言うことになっているので、その旨だけでも記載したいのですが、よろしいでしょうか?--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-29T21:40:26 (JST)
          • 両論併記という形ならよいと思います。「過渡期の特色が濃厚」と書かれていることは事実ですが、具体的に五重塔のどの部分がそれに当たるか、前代はどうだったか、後代はどうなったか、などが書かれていません。「構造上」と書かれているのは、梁上式のことを言っているのかもしれません。本門寺の塔は構造的に重大な欠点を持っているものですが、建築工法だけで時代区分するのが適切かを含めて考えるべきでしょう。お寺の人間は歴史の専門家ではないので、別の見解があることも指摘しておくことがより客観的と考えますが、いかがでしょうか。個人的には、余談になりますが、様式の時代変遷にラベルをつけるなら桃山時代や江戸時代などの紛らわしいラベルをつけず、ルネサンスなど起源が政治とは無関係なラベルにすべきではなかったかと考えています。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-30T11:49:39 (JST)
            • ありがとうございます。では、両論併記の形で本文に記載させていただきます。実際にどうであるかは置いておくにしても「本門寺の公式サイトにはこのように記載されている」とすれば、それは事実ですから。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-30T13:19:56 (JST)
      • 両論併記になっていなかったので、修正しました。ご意見あれば、コメントください。なお、本門寺HPには、「桃山期」として書いておらず、「安土桃山」と書くのは勇み足ではないでしょうか。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-30T14:06:29 (JST)
        • 本門寺HP記載の「桃山期」は「桃山時代」と同じ概念として考えているのか、不明点があるように思われます。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-30T14:26:51 (JST)
          • 確かに悩ましい問題ですね。ここは正確さを優先して「桃山期」と表記しておいた方が良いのでしょう。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-30T14:36:09 (JST)
            • そこは本門寺にインタビューしたいところですが、会ってくれないかも?--Eifuku21 (トーク) 2019-04-30T15:01:15 (JST)——以上の署名の無いコメントは、Eifuku21(トーク履歴)さんによるものです。
    • 私は現地で「本門寺五重塔」現物を見たことがあります。醍醐寺五重塔や室生寺五重塔の方が、個人の感想ですが、気に入っています。余談失礼。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-30T15:05:40 (JST)
      • 私も一度は見てみたいのですが、行動力の無さが災いして休日は家に籠ってしまいます。--狂犬病の雅の調べ(talk) 2019-04-30T15:15:40 (JST)
狂犬病の雅の調べ氏の意見に賛成します。--かやのしおり (トーク) 2019-04-27T10:57:21 (JST)
    • ここでは何が合理的であるか、意見の違いを集約する方法などのディスカッションしているので、賛成反対だけ言っても意味がありません。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-27T11:17:43 (JST)

1600年代初頭の五重塔[編集]

旧寛永寺五重塔なども、1600年代初頭の現存建築で重要文化財に指定されています。表記を改めた方が良いのでは?--かやのかすみ (トーク) 2019-04-26T00:34:13 (JST)

  • 「1600年から10年間の五重塔」は、持って回った言い方で美しくない。--Eifuku21 (トーク) 2019-04-26T00:58:42 (JST)