シャルル・ミュンシュ
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シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891年[1]9月26日 - 1968年11月6日[2])は、ドイツ出身の指揮者。[3][4]
ドイツ帝国領シュトラスブルクの生まれ。父エルンストはシュトラスブルク音楽院の音楽教師で、その父の手ほどきで幼少期よりヴァイオリンを始め、パリ音楽院でリュシアン・カペー、ベルリンでカール・フレッシュにそれぞれヴァイオリンを師事した。1920年にはストラスブール音楽院のヴァイオリン教師となった。1926年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入団して1933年までコンサートマスターとして在籍し、在籍中にヴィルヘルム・フルトヴェングラーに指揮法を学んだ[5]。1933年に著述家のジュヌヴィエーヴ・モーリーと結婚し、コンセール・ラムルーに登場して指揮者として活動するようになった。1935年からパリ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として活動し、1937年にはパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者に転じた。1945年にはレジオン・ドヌール勲章を贈られ、その翌年にはパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者を勇退。その後はアメリカにも活動の場を広げ、1949年から1962年までボストン交響楽団の首席指揮者となった。1960年にはボストン交響楽団と来日。1962年には単身来日して日本フィルハーモニー管弦楽団を指揮している。1966年にはフランス国立放送管弦楽団に帯同して3度目の来日を果たした。1963年からはエコール・ノルマル音楽院の院長の職にあったが、1967年にパリ管弦楽団が組織された時には、初代音楽監督となった。
パリ管弦楽団とアメリカ巡演中に、滞在先のバージニア州リッチモンドのホテルで心臓発作を起こして急逝。