サヴァ・ディアキフ
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サヴァ・フェドロビッチ・ディアキフ(ウクライナ語:Сава Федорович Дьяків、1887年 - 1919年12月13日)は、ロシア帝国、ウクライナ人民共和国の軍人、アタマン、自由コサックの一人で、抵抗運動をしながら、赤軍と義勇軍(白軍)と偽り、略奪をしたとして知られている。
生涯[編集]
ロシア帝国のキエフ県(現在のキーウ州)のカガリツキー地区、イワニフカ村で貧しいコサック一家の元に生まれた。
第一次世界大戦の際に海軍に召集され、ロシア革命が起きるまでバルチック艦隊に勤務した。
革命後はイワニフカ村に帰郷し、ウクライナ中央ラーダに参加した。
同じアタマンのマルコ・シュリャホヴィは彼について後に回想録で次のように記している。
1917年の革命の以来、ディアキフは海軍勤務中に、黒海艦隊のウクライナの軍事組織に参加した。黒海艦隊が他の艦隊と同様に、1917年末に向けてボルシェビキ運動を開始した時、彼は艦隊を去り、自発的に中央議会にやって来た。ここでは、1918年1月に中央議会がボルシェビキと戦った時、ディアキフはすでに自由コサックだった。その時から、彼はキエフ県の彼の故郷の地区で自由コサックの首長になった。ディアコフ自身が私に言ったように、彼は中央評議会とその当時の指導者をとても愛していたので、敵との戦いでいつでも命を捧げる準備ができていた。
1919年8月から9月にかけて、彼はキエフ県のゲルマニフカ村にある共産党の独房を破壊する。(この独房は、ボリシェヴィキの下、近くの農民から食料などを略奪していたため)
最期[編集]
1919年12月13日、ウズィーンの製糖工場の強盗から、保護を求めてディアコフに頼ったイワニフカ村の農民に裏切られ、町の近くの待ち伏せに遭い、彼を連れ出した後にミリフカ村で射殺された。
遺体は義勇軍によって嘲笑され、住民を威嚇する為に町の柱に足から吊るされた。
疑惑[編集]
当時のウクライナで名を上げていたアタマンダニール・テルピロの死への関与を疑われている。(2011年に娘のマリアが「テルピロの死が伝わった時、彼はスタビスカに居て、亡くなった報告を受けた後に彼の死因を調べ、自身の部隊とテルピロの部隊と合流した。」と証言している。)
家族[編集]
妻のハンナ、子供にはパブロ、ペトロ、ビラ、マリアがいる。
参考文献[編集]
- Марко Семенович Шляховий Кармелюк. Записки повстанця. — Кн.: Так творилося українське військо: 10 спогадів учасників Визвольної війни 1917—1920 років, Р.Коваль. — К., 2008.