クレメンス1世
クレメンス1世 | |
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他言語表記 | ラテン語: Clemens Romanus ギリシア語: Κλήμης Ρώμης 英語: Clement of Rome |
生誕 | 30-35年頃 ローマ帝国 |
死没 | 99-101年頃 ケルソネソス(クリミア半島) |
崇敬する教派 | カトリック教会 聖公会 ルーテル教会 正教会 非カルケドン派 |
記念日 | 11月23日(カトリック教会) 11月24日(ほとんどの東方典礼カトリック教会) 12月8日(正教会、修正ユリウス暦使用教会では11月25日) 29 Hathor(東方正教会) |
クレメンス1世(ラテン語: Papa Clemens I、クリメント)は、使徒教父の一人でローマ出身の教皇(在位:88年 ~ 99年頃)。カトリック、正教会、聖公会、ルーテル教会などで聖人で、記念日はカトリック教会、ルーテル教会,聖公会が11月23日、正教会が11月24,25日。
クレメンスは初期のローマでかなり著名な司教で、教会の伝承によればペテロの直弟子で ペテロにより監督に任命されたとのこと。また、『ピリピ人への手紙』4章3節のクレメンスと同一人物であるとも言われてきました。これらを否定する説も存在しますが、いずれにせよ初代教会でのクレメンスの評価の高さを伺わせます。
2世紀の使徒教父文書であるヘルマスの牧者は他の教会に手紙を送ったクレメンスを上げています。これはおそらく、クレメンスの第一の手紙への言及でしょう。[1]
四世紀の使徒に関する文学にある伝説によれば、クレメンスはトラヤヌス皇帝の治世中にローマからケルソネソスに追放され、採石場で働くことになります。クレメンスが採石場に到着すると、捕虜が水不足で苦しんでいました。それを見て、クレメンスは神にひざまずいて祈りました。祈り終わって、見上げると丘の上に子羊がいるのを見ました。そこで、子羊が立っていた場所に行ってつるはしで地面を打つと、なんと澄んだ水が出てきました。
この奇跡を見た仲間の囚人や多数の異教徒がキリスト教に改宗しました。しかし、その罰としてクレメンスは船から黒海に落とされ殉教することになります。
現在、クリミアの聖クレメンスインケルマン洞窟修道院が、クレメンスの埋葬の場所とされています。
書簡[編集]
クレメンスの書簡は一時期、新約聖書と同等に扱われ他の書簡と共に教会などでも読み上げられていました。
現在、クレメンスが書いたとされる文書はいくつか残っていますが、多くの学者は第一の手紙のみがクレメンスの書いたものだと考えています。
しかし、クレメンスの第一の手紙、第二の手紙、共に使徒教父文書として認められています。
第一の手紙は5ー7章の記述から、96ー97年頃の成立が推測され、使徒教父文書の中でも一部[2]を除いて最古の文書です。世界大百科事典 第2版によると、成立年は マルコによる福音書が70年頃(FIREBIBLEは55-65)、マタイ,ルカによる福音書が80‐90年(FIREBIBLEは60-63),ヨハネが100年(FIREBIBLEは80-95)となっているので、正しければ 福音書から少し後くらいに出来た文書と考えられます。パウロの書いたコリント人への手紙は55-56年(FIREBIBLE)となっているのでそれよりはだいぶ後となります。
第二の手紙は伝統的にクレメンスが書いたものとされてきましたが、最近の聖書研究家によるとこれ(第二の手紙)は2世紀半ばに成立した文書でクレメンスを偽って書かれた偽書であると考えられています。
また、他にもローマのクレメンスが書いたと言う「説教集」といった文書もありますがクレメンス偽書と呼ばれグノーシス的な偽作であると考えられます。
脚注[編集]
- ↑ "Vision II," 4. 3 enwp:Pope Clement I
- ↑ ディダゲーの一部