クララ・ハスキル

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クララ・ハスキル(Clara Haskil, 1895年1月7日 - 1960年12月7日)は、ルーマニア出身のピアノ奏者。[1]

概要[編集]

ブカレストの出身。4歳の時にピアノを堪能にする母ベルテからピアノの手ほどきを受ける。6歳の時からブカレスト音楽院に通い、マリア・ゼニデ[2]にピアノを学んだ。1902年にルーマニア王妃エリサベタの御前で演奏を披露し、奨学金を得たことでウィーンに転居し、ピアノと並行してヴァイオリンも弾き始めた。ウィーンではリヒャルト・ロベルトにピアノを学び、転居した年のうちに初めてリサイタルを開いている。1905年にはパリに転居し、ジョゼフ・モルパンのレッスンを受ける。その翌年にはパリ音楽院予科に入り、同級生のヨウラ・ギュラーと親交を結んだ。1907年にパリ音楽院本科に入り、アルフレッド・コルトーのクラスに入ったが、コルトーの多忙により、なかなかコルトーのレッスンを受けられず、主にラザール・レヴィの薫陶を受けた。また、コルトーもわざとハスキルを邪険に扱った[3]。1910年にはパリ音楽院を首席で卒業して帰国。1911年にはイタリアとスイスに演奏旅行に出かけ、チューリヒで演奏した際、フェルッチョ・ブゾーニに認められ、ブゾーニの門下になることを打診されたが、母の意向でブゾーニに入門することはなかった[4]。1907年から脊椎側弯症に悩まされていたが、1914年にノルマンディー地方のベルク=シュル=メールに移り、しばらく治療に専念。1921年にエルネスト・アンセルメの指揮するスイス・ロマンド管弦楽団のスイス国内ツアーに参加する形で演奏活動に復帰。1924年にはアメリカに演奏旅行に出かけている。1930年にチューリヒで交通事故に遭い、さらにパリ留学中の頃からほぼ行動を共にしていた母方の叔父アヴラムが1932年頃から体調悪化し、その看病で自らの体調も変調をきたしたことから、しばらく演奏活動が低迷した。1934年にポリドール社と契約して録音活動も行うようになったが、この年にアブラムが亡くなっている。1935年には出入りしていたパリのポリニャック公妃のサロンでディヌ・リパッティと出会い、親交を結んでいる。第二次世界大戦中もパリを本拠に演奏活動を継続していたが、1940年にパリがナチスに占拠されたことから、1941年にマルセイユに移住。当地では頭痛と視力障害に悩まされたため、1942年に視神経を圧迫する腫瘍の摘出手術を受け、その年のうちにジュネーヴに転居している。戦後も体調のトラブルを抱えながら演奏活動を続け、1949年にスイス国籍を取得。1950年にオランダへの演奏旅行を成功させ、さらにプラド音楽祭に出演してアルテュール・グリュミオーと知り合う。1955年にはミラノでグリュミオーとルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会を開き、グリュミオーとのデュオでの活動を活発化させた。1958年にはフランス政府からレジョン・ドヌール勲章のシュヴァリエ章を授与される。

1960年12月上旬にパリでグリュミオーとのコンサートを終え、ブリュッセルでのグリュミオーとのコンサートに出演するためにブリュッセルに向かったが、ブリュッセル駅のロビーに向かう階段で転倒し、頭部を強打。搬送先のブリュッセル市内の病院で容体の急変により死去[5]

脚注[編集]

  1. クララ・ハスキル・コレクション 1934-1960(23CD) | HMV&BOOKS”. 2021年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月14日確認。
  2. アーカイブ 2021年4月13日 - ウェイバックマシン
  3. コルトーに纏わるハスキルのエピソードとして、コルトーに師事した遠山慶子の証言がある。遠山によれば、ハスキルは「コルトーもむつかしい人だったけど、ハスキルも、体が弱かったし、人種の問題もあって、シンプルな人じゃあなかった」(原文ママ)という。ハスキルがヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲第21番を公開の場で演奏もせず、レコーディングもしなかったので、遠山が何故演奏も録音もしないのか尋ねたところ、最初に帰ってきた返事が「ディヌ(ディヌ・リパティ)があんまり完璧に弾くから私は弾かないのよ」(原文ママ)と答えた。遠山が「それでもあなたの演奏も聴いてみたい」と言うと、ハスキルは「コルトーが私にはあの曲は弾けないと言ったのよ。私みたいに、死ぬほど人の前で弾くのが怖い人に」と答え、その答えに遠山は震え上がった。それから「ピアノにむかうと、ハスキルは、最初のオーケストラの部分から、最後、第三楽章の終りまで、夢をみているように、澄んだ音で、しかもピアニッシモで」弾き、弾き終わった時にはハスキルも遠山も泣いていたという。また、遠山はハスキルから「あなたは、先生に可愛がっていただいていいわねえ」と声をかけてもらったこともあるという。遠山曰く「彼女、何か先生とすっきりいかなかったらしいのね。他の生徒は一所懸命に教えるのに、彼女はいつも後回しで、レッスンの時間が足りなくなる羽目になったんですって。まわりの人は、ハスキルは音楽性がすごいので、先生もあんまり教えることがないって思っていたようだけど。」とのことである。また、遠山によれば、ハスキルは晩年に「どうか私の音楽会のために時間をつくっていただけないでしょうか。先生に聴いて頂きたいと心より願っております」と、切々と訴えるような手紙をコルトーに出したが、コルトーは彼女の演奏会に行かなかったという。ただ、コルトーはハスキルを毛嫌いしたり、ハスキルに無関心だったりしたわけではなく、ハスキルの演奏を聴きに行った遠山に「どうだった?」と尋ねていた。ある日、遠山がコルトーとのレッスンを終え、コルトーとレマン湖に散歩に出かけた時、コルトーはハスキルへの接し方について、こう言ったという。「クララに必要なことは、放っておくことだ。どのような人にどのように教えるべきかを発見するのが、教師にとって一番むつかしいことだ。クララは、バランスが取れないような、孤独な時にもっとも素晴らしいもの生み出す才能なのだ。生涯満足をさせないことが、彼女を生かす道なのだ。」この言について、遠山は「私はクララに先生の気持ちを話してあげて、慰めたい誘惑に何度もかられたわ。でも、それは絶対にしてはならないことだと私にも身にしみてわかっていました。一人の芸術家が育つことは、本当に残酷なことなのね。そうして、本当の愛情には残酷がともなうの」と述懐している。(遠山, 慶子、加賀, 乙彦 『光と風のなかで』 彌生書房、1993年、181-184頁。ISBN 9784841506761)
  4. 喜多尾によれば「スイス、イタリアで演奏活動をはじめたおり、彼女の演奏を聴いた作曲家のブゾーニは驚嘆して、彼女をベルリンに呼び、彼のもとでさらに研鑽を積ませた」ということになっている。(喜多尾, 道冬 「クララ・ハスキル 右手と左手の巧みな使い分けと微妙なバランス」『ピアニスト名盤500』 音楽之友社、1997年、130-131頁。ISBN 9784276960435)
  5. 遠山によれば、コルトーは「クララは孤独なときにいちばんすばらしい演奏をする」とはスキルの才能を見立て、ハスキルに対して「徹底して突き放しているようにみえ」るような態度を取っていた。しかし、「彼女は一九六〇年の暮に、ブラッセルの駅の階段から落ちて亡くなりましたが、コルトオはその晩のラジオの放送で、『クララ、貴方は本当にすばらしかった』と語りかけ」たとのことである。(遠山, 慶子 「愛のムチ」『音楽の贈りもの』 春秋社、2009年、38-39頁。ISBN 9784393970447)