カラカラ

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カラカラ(ラテン語:Caracalla)は、ローマ帝国の第21代皇帝。カラカラはあだ名であり、本名はルキウス・セプティミウス・バッシアヌス(ラテン語:Lucius Septimius Bassianus)。アントニヌス勅令の制定などの功績があったものの、圧政や数々の失策から、後に人類共通の敵と呼ばれた。

出自[編集]

188年4月4日、現在のルーマニアにあたるガリアで誕生した。
父は、属州生まれとしては初めての皇帝セプティミウス・セウェルスであった。彼は現在のリビアで生まれ育ったため、ローマの生え抜きの貴族からは軽んじられていた。しかしパルティア戦争などの対外戦争を度々勝利に導き、腐敗した貴族を粛清したため、民衆からの人気が高かった。
母はシリア生まれのユリア・ドムナであった。彼女は外征の多い夫に代わって、ローマで大きな発言力を持っていた。研究により、彼女はローマの没落貴族の末裔である可能性が高いことがわかっている。
カラカラは貴族からの支持を集めるため、名門出身で貴族からの人気が高いアントニヌス帝の子孫を詐称した。しかし、当の貴族らはこれを信じず、彼を「カラカラ」[1]のあだ名で呼んだ。

政治[編集]

209年、父の遺言により、弟のゲタと共同で皇帝に即位した。だが兄弟は互いに仲が悪く、殺意すら抱いていたという。
211年、この状況を憂いた母のユリア・ドムナは、兄弟の和解の場を用意する。
しかしカラカラは、よりにもよってこの場で弟を殺してしまう。この殺害について、のちに「弟から身を守った」と言い訳し、正当防衛を主張した。

権力を得るとすぐ、カラカラは資金確保のため「アントニニアヌス銀貨」と呼ばれる価値の低い硬貨を大量生産した。しかし、これが深刻なインフレーションを引き起こし、民衆の生活は苦しくなった。

212年、カラカラはアントニウス勅令を制定した。これは属州民を含め、奴隷以外のすべての人間にローマ市民権を与えるものである。一般的には、納税の義務の対象を拡大し、税収の増加につなげる目的で制定したとされている。
この勅令の制定前には、属州民がローマ市民権を得るためには兵役に服さなければならなかった。そのため、「この勅令が原因でローマ軍への志願者が減り、間接的にローマの国力を衰えさせた」と断定する歴史家が存在する。一方、「この勅令によって、帝国内で出自による差別が無くなった」などと肯定的に評価する学者もいる。

アレクサンドリアでは、市民の間でカラカラの弟殺しを揶揄する詩が流行した。カラカラは「弁明の機会を設ける」としてアレクサンドリア市民を集めると、計2万人を虐殺した。それだけでは飽き足らず、アレクサンドリアの建造物を徹底的に破壊させた。

父の政策を受け継ぎ、彼は軍備増強を積極的に行った。また、隣国パルティアへの軍事侵攻を計画していた。そのほか、自身の功績を後世に遺すため、現在でも残るカラカラ浴場を建設させた。これらの浪費は、ローマ帝国の財政状態を悪化させた。

最期[編集]

217年4月8日、カラカラは軍勢を率い、パルティアとの戦争に控えて移動していた。
その日、路上で立ち小便をしていたところを近衛兵に刺されて死亡した。享年29であった。

関連項目[編集]

  • 皇帝
  • ローマ帝国
  • 唐澤貴洋
    • 名前が似ているほか、数々の共通点(多くはネット民のこじつけ)があり、「カラカラ帝は唐澤貴洋の前世」とするネットミームがある。

脚注[編集]

  1. カラカラ帝が好んで着ていたといわれる、ガリア地方の衣装