エリン・ピッツィ
エリン・ペイトリア・マーガレット・ピッツィ[1](Erin Patria Margaret Pizzey、1939年2月19日-)は、イギリスの元フェミニスト、男性権利活動家、反ドメスティック・バイオレンス活動家、小説家である。
ピッツィは家庭内暴力(ドメスティックバイオレンス)問題に取り組み、女性から男性への家庭内暴力の存在を指摘したため、過激派フェミニストによる殺害予告や排斥の対象になった。自分が立ち上げたシェルターからも追い出され、ついにイギリスから追い出されることになった。
経歴[編集]
1939年、中華民国の青島市で、エリン・カーニーという名で生まれた。父は外交官であった。1959年にジャック・ピッツィと結婚した。
1971年、ピッツィはロンドンのチズウィックに世界初の女性のための避難所「チズウィック・ウィメンズ・エイド」(現在は「リフュージ」)を設立した。建物を不法占拠して避難所にしたために問題になったが、ピッツィの仕事は当時、広く称賛を集めた。
その後間もなく、ピッツィは家庭内暴力の多くは相互的であるという結論に至った。ピッツィが避難所の女性たちに暴力について尋ねたところ、女性たちのほとんどが夫と同等かそれ以上に暴力的であることが判明したためである。ピッツィは「真の虐待を受けた女性」と「暴力傾向のある女性」とを区別した[2]。ピッツィは避難してきた女性のうち真の被害者は38%であり、62%は女性自身に暴力的な傾向があることを明らかにした。後の研究でも同様の調査結果が出ている。
1976年にジャック・ピッツィと離婚し、1980年にジェフ・シャピロと再婚した(1994年に再度離婚している)。
1981年にピッツィはニューメキシコ州サンタフェに移住したが、嫌がらせ、殺害予告、爆破予告、誹謗中傷の標的となり、心身の不調に悩まされるようになった。サンタフェで彼女は飼い犬を1匹撃たれ、2匹盗まれた。
ピッツィはニューメキシコでも避難所を運営し、性的虐待者への対応にも携わるようになった。そして小児性愛者は女性にも男性と同じくらいいることを指摘した。
1982年には著書『暴力への傾向』を出版し、過激派フェミニストからの更なる嫌がらせを受けた。
その後ピッツィは、ケイマンブラック島、さらにイタリアのシエナに移り住み、1997年にロンドンに戻った。
現在[編集]
ピッツィは今も家庭内暴力の被害者への支援に尽力している。
2013年には男性権利団体「ア・ヴォイス・フォー・メン」の顧問となった。2016年には男性差別を扱ったキャシー・ジェイ監督のドキュメンタリー映画『ザ・レッド・ピル』に出演している。
2024年には、家庭内暴力被害者に対する支援の功績が認められ、大英帝国勲章司令官(CBE)の叙勲がなされた。
脚注[編集]
- ↑ 名前の読み方は /ˈpɪtsi/。日本では「ピジー」「ピゼイ」などと読まれることもある。
- ↑ A Comparative Study Of Battered Women And Violence-Prone Women by Erin Pizzey