ウォードレイダー
ウォードレイダー (Woad Raider) は、ケルト人のゲリラ戦士である。ローマ時代から中世にかけて、ケルト人の戦士は、敵を威嚇する目的で、ホソバタイセイ(細葉大青、woad)の葉を顔になすりつけて化粧を施すことがあった。
歴史[編集]
古代ギリシャや古代ローマをはじめとする青銅器時代から鉄器時代にかけての地中海沿岸の諸民族は、飛び道具を抜きにして言うと、主としてそこまで長大ではない剣や槍、重く大きな盾、兜、裕福な者はさらに鎧まで装備して戦うのが普通だったために、同時期その他の地域の文化圏と比べてみてもかなり重装備の歩兵が主戦力だった。戦い方も槍や盾で相手に突進し、至近距離では剣で突き刺すというのが主で、斬りつけるのは稀だった。
これとは対照的に、こうした民族と長い間戦っていたケルト人は、鎖帷子を製作できるような優れた金属加工技術があるにも拘らず、鎧を身につけるのは臆病者のすることであるとされたために嫌われる傾向にあった。彼らはホソバタイセイの青い刺青がはいった筋骨隆々の体を見せつけ、かつこの裸同然の姿に木製の軽い盾。武器も斧や長大な剣を好んで装備し、それを両手で振り回し相手を叩き斬るという豪快な戦い方が主だった。しかし、これは身分の低い者の話であり貴族階級であれば装飾の施された兜に鎖帷子、肩当て等を身に着け戦闘に赴く[1]。
ローマ人は最初はこのケルト人の戦術を相手に苦戦したが、斬撃に耐えられるように盾を補強し、ケルト人が剣を振り上げた隙に剣を突き出すなど対処法を編み出し、長期的に真正面からぶつかり合う戦闘では逆にケルト人が不利になった。従ってケルト人は自分たちの住む森林地帯と機動力を活かした奇襲やゲリラ戦などの戦法をしばしばとった。特にローマ帝国が拡大しその兵力が増大すると、味方の兵力をできるだけ温存するためにもこうした戦法は重要となった。飛び道具もギリシャやローマが投げ槍以外に、弓や投石器、クロスボウや弩砲なども用いたのに対して、ブリタンニアには森林地帯が多く弓矢が有効な武器にはならないため、ブリタンニア以外のケルト人はほとんど使用せずもっぱら投げ槍や投げ斧が主で、そもそも飛び道具自体をそこまで使用せずに突撃することが多かった。しかし、これも下級戦士の話であり上階層の戦士は戦車に乗り、乗っている間は飛び道具を使用する。アイルランドにおける戦車は二頭立ての二輪車両である。戦車は馬、車体、戦士、そして御者から成る。乗り降りは後ろから行い、前部から「ながえ」と呼ばれる木または金属の棒が延び、先端についた「くびき」が馬のくつわに繋がる。御者はしゃがみ、手綱で馬をさばき、戦士は投槍や投石などで攻撃する。飛び道具が無くなった時に初めて戦車から降り白兵戦を行う。
ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア遠征の一環として第一次ブリタニア遠征を開始すると、それに抵抗した現地のケルト人達は上述の通りゲリラ戦によってローマ軍に対抗した。カエサルにとって同遠征は副次的なものでしかなかった事や、当時はまだガリアの大部分が未開のままであった為に追加戦力を本土であるイタリア半島から召集せねばならなかった事からこの戦術は有効であった。しかしガリアが平定され、多くのローマ兵士が入植して同地のラテン化を推し進めると、ローマ軍はガリアに住むローマ人から兵力を補給できるようになった。またラテン化されていないガリア人も補助軍の兵士として戦力化されており、帝政移行後に第二次ブリタニア遠征が開始されるとブリタニア人はローマ軍に圧倒された。ブリタニアにはロンディニウムを始めとするローマ軍の基地や殖民市が多数建設され、カレドニア以南のブリタンニア及びその土地のケルト人は政治的にも文化的にもラテン人化されていった。
中世及びそれ以降においてはアイルランドやスコットランド、特にハイランドの住民は南方のより文化の進んだイングランドと長い時代において何度も戦っていた。いずれの時代においてもイングランド軍は高い経済力や優れた政治体制を背景にした質量でアイルランドやスコットランドを凌駕しており、その上にその時代での最先端の兵器(例えば中世であればロングボウや重装備の騎士、近世であればマスケット銃や銃剣)を保有しており、こうしたイングランドの軍隊に対抗するためにはゲリラ戦や武勇による突撃などに頼らざるをえず、こうしたケルト人は徒歩であっても恐るべき機動力と士気とを身につけていた。
作品[編集]
- マイクロソフト社のゲーム「エイジ オブ エンパイアII」において、ケルトの固有ユニットとして登場する。斧を持った野蛮人として描かれ、移動速度が速い。
脚注[編集]
- ↑ 『図解 ケルト神話』 新紀元社、2014年4月30日。