南北戦争

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南北戦争
戦争: アメリカ連合国(南部)の正当な手続きを踏まない独立に基づく内戦
年月日: 1861年4月12日 - 1865年4月9日
場所: アメリカ
結果: Flag of the United States (1865-1867).png アメリカ合衆国(北部)の勝利、アメリカ連合国(南部)の再併合、脱奴隷化の動きが進む
交戦勢力
Flag of the United States (1865-1867).png アメリカ合衆国(北部、奴隷解放派) アメリカ連合国国旗(1861).png アメリカ連合国(南部、奴隷推進派)
指揮官
大統領:エイブラハム・リンカーン

将軍:ユリシーズ・グラント

ウィリアム・シャーマン

ジョージ・マクレラン

デヴィッド・ファラガット ほか

大統領:ジェファーソン・デイヴィス

ロバート・E・リー

ジョセフ・ジョンストン

トーマス・ジョナサン・ジャクソン

ラファエル・セムズ ほか

戦力
2,200,000人 750,000人 - 1,000,000人
損害
365,000人以上 290,000人以上

南北戦争(なんぼくせんそう)は、19世紀のアメリカ合衆国と、そこから離脱したアメリカ連合国との間で発生した戦争である。

概要[編集]

アメリカ連合国を承認した国家の有無や、アメリカ合衆国がアメリカ連合国を承認したかということで、この戦争が異なる国家同士の戦争か、内戦かということで検討する余地がある。

開戦前[編集]

当時、アメリカでは南部州を中心に奴隷を用いて綿花を大農場で栽培する農業が行われていた。一方、北部州では工業が盛んになっていたため大量の労働力は必要なかった。また、貿易などの視点でも北部州はイギリスなどの製品が大量に入ってくることを危惧して保護貿易を主張したが、南部は円滑な輸出を行うために、自由貿易を主張した。このような2つの点から南部と北部の対立は深刻なものとなり、内戦は避けられないものとなった。

開戦[編集]

1860年の11月の大統領選挙ではエイブラハム・リンカーン(反奴隷)が当選し、南部には不安が広がった。そして同年12月にはサウスカロライナ州の独立を皮切りに7州が独立した。7州は連合し、アメリカ連合国を組織。[1]4月にはアメリカ連合国軍が攻撃を開始し、戦争が始まった。

経過[編集]

戦争初期は接戦で推移していったが、ゲティスバーグでの戦い後流れがアメリカ合衆国側に推移。もともとの人的資源の少なさや紙幣のインフレなどにより、アメリカ連合国は厳しい戦況となった。1865年の4月9日には最後の抗戦勢力だったリー将軍が降伏しアメリカ合衆国の勝利で終わった。

戦術[編集]

列車砲モニターガトリング砲といった新兵器が使用され、近代戦としての片鱗が見え始めた。

影響[編集]

日本への影響[編集]

この戦争によってアメリカ合衆国からの徳川幕府末期の日本への干渉が弱まり、代わりにイギリスフランスが日本への干渉を強めた。南北戦争後に大量に余った武器がガトリング砲を含めて戊辰戦争時の日本に大量に輸入された。

アメリカ国内[編集]

南北戦争に勝利した政権は一旦奴隷制度を廃止したが、1883年に最高裁で無効判決が出て、再度奴隷制度が合法となった。このため、公民権運動が起きるまで、各州の有色人種隔離の政策が合法とされた。

注釈[編集]

  1. アメリカ連合国でも合衆国と同じく民主的な選挙が行われ大統領にはジェファーソン・デイヴィスが当選した。