やりがい搾取

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やりがい搾取とは、労働者が感じている「仕事のやりがい」を経営者の側が逆用することで、サービス残業・長時間労働などを正当化して押し通す悪行のことである。

「やりがい搾取」前史[編集]

西洋では[編集]

デヴィッド・グレイバーは著書『ブルシット・ジョブ』のなかで、「やりがい搾取」の起源となる発想について分析している。以下、多少駆け足ではあるが本書の主張を紹介する。

一般に「賃労働」の誕生は、資本主義の発生に伴うと考えられている。しかし資本主義の発生「以前」から、北部ヨーロッパでは「奉公人」という形での賃労働が行われていた。職人ギルドの徒弟制度のようなものが、農民にも貴族にも存在していたのである。彼らは子供時代の大半を他人の家で奉公して過ごし、賃金を得るとともに人格涵養を行っていた。

その時代には、奉公人はやがて一人前の職人→「親方」となり、家族をもって社会的に自立するというビジョンがあった。しかし、資本主義の台頭により「奉公人」としての過ごし方が一生続くようになる。親方として社会的に自立するというビジョンは崩壊し、「青年期」が永久に続くようになる。

反動として、異常な早婚化も進み荒くれ者たちが増えた。フィリップ・スタッブズ『悪弊の解剖』に象徴される「マナー改革派」は、こうした「主人なき男たち」を集め、敬虔な家庭での厳格な規律のもとで仕事と祈りを叩き込もうとした。(これは、ヴィクトリア朝の救貧院から、今日のワークフェアまで連綿と続く歴史となる。)こうして「仕事=贖罪、進んで行う苦行、それ自体が価値あるもの」と考えられるようになった。

トマス・カーライルは「仕事それ自体が高貴であるならば報酬を与えるべきではない」という、現代の「やりがい搾取」につながる考えを述べている。

この考えは中産階級の支持を集めた一方、ラッダイト運動・チャーチズム・初期ラディカリズムといった社会運動には影響を与えなかった。労働従事者たちは実感として、労働それ自体の神聖さという考えなど支持しなかった

この時期の経済学者であるアダム・スミスやデヴィット・リカードは、労働価値説を支持している。著者のグレイバーは、何かを「生産」することに重きを置いて考える労働価値説は「神学的(キリスト教的)」な発想であり、生産を伴わない労働(こんにちで言うところの「ケア」)を軽視していると指摘している。グレイバーの主張は入り組んでおり要約が少々難しいのだが、要するに、マナー改革派やトマス・カーライルが労働を神聖化したのとはまた別のルートで、当時の経済学者たちもある意味、労働を神聖化してしまったと主張したいようである。

上記の主張はあくまで西洋の歴史に根ざしたものであり、日本のやりがい搾取の起源についてはまた別に考える必要があるだろう。

日本では[編集]

「やりがい搾取」が成立するのは、多くの労働者が「仕事=それ自体で価値のあるもの」という道徳的な観念を持っているからである。単なる「金稼ぎの手段」というドライな考え方が一般的であれば、やりがい搾取は成立しないはずだ。では、仕事を神聖視する発想はどのように定着したのか。

西洋と同じく日本においても、「資本主義の発生」と「仕事を神聖視する発想」は分かちがたく結びついている。下記に、井沢元彦『逆説の世界史3』の主張をかいつまんで紹介する。

山本七平によれば、仏教を改変して日本型の資本主義を確立したのは江戸時代の僧侶・鈴木正三であるという。(なお、それを仏教と切り離して一般人の道徳「心学」として確立したのが石田梅岩である。宗教社会学者ロバート・ベラーも、西洋で資本主義を生み出したのがプロテスタンティズムであることと対比させて、日本で資本主義を生み出したのは石田梅岩の「石門心学」であると分析している。)

江戸時代は、朱子学の教えに基づいた「士農工商」の考えが優勢な時代であった。しかし、僧侶の鈴木正三はそうした差別意識とはまったく無縁の存在であり、さまざまな階級の庶民に対して「普段の仕事がそのまま仏道修行につながっている」と説いた。日本における「仕事=神聖なもの」という発想の起源は、ここに見て取ることができる。(なお、「士農工商」の4番目に「商」が来るとおり、江戸時代には商売人は卑しい職業と考えるのが普通だったが、鈴木正三は商売人が品物の流通を支えていることを評価していた。彼が商売人たちに説いた内容は、現代の松下幸之助が唱えた「水道哲学」に通じるものがあり、資本主義の萌芽を見て取れる。)

江戸時代には、呉服屋の越後屋が「現金掛け値なし」の手法で繁盛するなど、「正価主義」とでも呼ぶべき考えが広まっていた。「正価主義」は井沢の造語であり、商品に法外な値をつけず妥当な値段で販売することを意味している。現代の日本では当たり前のことであるが、古来より商人は品物に高めの値段をつけ、買いたいお客が値切るのが世界の常識であった。(現代でも日本を離れれば、値切ることが前提の価格設定になっている国は多い。)儲けだけを追求せず適切な価格で販売することが広まった背景には、商売は「他人を騙す詐欺」ではなく「菩薩行」であるという発想があると考えられる。

18世紀の日本では、世界最初の先物取引所(堂島米市場)が開設されている。ある種の道徳心に裏打ちされた「正価主義」がなければ先物取引所のような場は成立しようがないし、ひいては資本主義が発展することも難しい。以上の論に従うならば、日本における「資本主義の発生」と「仕事を神聖視する発想」は分かちがたく結びついていることになる。

現代では、ビジネスと仏教をつなげて考える日本人はもちろんほとんど居ないのだが、「道徳」というものに形を変えて根本の部分は受け継がれている、というのが井沢元彦の主張である。(宗教色を抜いて、一般人の道徳「心学」に作り替えたのが前述の石田梅岩である。)

このような歴史の流れがあって、日本人の多くが「仕事=神聖なもの」という道徳的な観念をもっているからこそ、現代にいたって経営者側がその心理を逆用し「やりがい搾取」を押し通すことも可能となってしまっているのであろう。