Nintendo PlayStation
Nintendo PlayStation(以下PlayStation)とは、当時(1990年代)はあまりメジャーでなかった「CD-ROM」を、スーパーファミコン(以下、SFC)でカセット同様に扱えるようにすることで、大容量化を図った同ハードの互換機である。[注 1]
概要[編集]
任天堂へのPCM音源の売り込みに成功し、SFCに使用させることができた久夛良木健が、今度はCD-ROMをSFCで再生しようと任天堂に持ちかける。光ディスクに消極的な任天堂は開発に対して最後まで意欲を見せなかったが、最後は根負けし開発の許可を出した。
1991年6月のCESで発表したものの、同時に任天堂がフィリップスとの共同開発でCD-ROMアダプターを発表し、これを見たSONY上層部が「任天堂による契約破棄」と解釈、元々ゲーム業界参入をよく思っていなかったため、プロジェクトを中止に追いやった。
結局このハードが世に出ることはなかったが、後に発売した据え置き型ゲーム機「(初代)PlayStation」は、いくぜ100万台の掛け声で売り上げ1億台を記録する、伝説のハードとなった。
開発着手まで[編集]
任天堂へPCM音源を売り込むことに成功し、SONY製の音源チップをSFCに搭載することに成功した久夛良木。今度は、スーパーディスクと言われるCD-ROMをSFCで読み込ませるプロジェクトを任天堂に持ちかける。しかし、光ディスクに対して消極的な任天堂は、なかなか首を縦に振らなかった。それでも猛アタックを続け、ついに根負けした任天堂が、「どうにもならないと思うが、CD-ROMをやってもいい」と許可した[1]。
当時SONY上層部は、ゲーム業界への進出をよく思っていなかったが、大賀典雄社長(当時)が賛意を示していたことから、プロジェクトが正式に始まった。
当初、久夛良木はSFCに直接接続する周辺機器にしようと考えていたが、彼が不満を持っていたディスクシステムのようなサブ・システムの位置付けになってしまいインパクトに欠けるとし、SFCの互換機を開発することに決めた[1]。
1990年1月[1]、両者間で契約が結ばれ、SFC互換機「PlayStation」の開発が始まった。[注 2]
光ディスクソフトの開発は、ソニー・ミュージックエンターテイメント(以下SME)が担当することとなった。しかしSONY上層部はこのプロジェクトによる、SONYのゲーム業界への参入をよく思っておらず、プロジェクトに支障が出ることを恐れた久夛良木は、SONY社内の誰にも任天堂との契約書を見せなかったと言う。
また、同時期に任天堂が「SFC用CD-ROMアダプタ」を発表しており、SONY上層部は久夛良木がこれを開発していると思っていた[1]。
発表、その後[編集]
1991年6月、CESでSFC互換機「PlayStation」を発表。
任天堂もフィリップスと開発した「SFC用CD-ROMアダプタ」を発表する。
しかし、これを見たSONY上層部は、「任天堂による契約破棄」と解釈し、元々よく思っていなかったSONYのゲーム機業界参入を止めようと、契約破棄を理由にプロジェクトを中止にした。
SONYにいたままでは彼の能力が押し殺されてしまうと、大賀社長がSMEに一時的に避難させるが、SONYが独自のゲーム機を発売する夢は、まだ、久夛良木から消えてはいなかった。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 発表はしたものの、任天堂がフィリップスとの共同開発でCD-ROMアダプターを発表したことで、契約破棄とみなし発売には至らなかった。
- ↑ ここでは任天堂と共同開発していたPlayStationを取り上げるため、据え置きゲーム機PlayStationとのリンクにはしないこととする。
出典[編集]
外部リンク[編集]
- あとがきと、プレイステーション0についてちょっとだけ 幻に終わった対任天堂共同戦線 セガ&SCE - ゲーム史に関するセミドキュメンタリー風創作ブログの後書き。当時の資料が不十分で、経緯に不明点があることを指摘している