長勝寺 (大田区)
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長勝寺(ちょうしょうじ)は、東京都大田区中央の日蓮宗寺院。山号は覚応山。旧本山は小湊誕生寺。潮師法縁。
歴史[編集]
正保3年(1646年)に創建された。開山は陽善院日繕。開基檀越は田中長勝。元は池上本門寺の末寺であったが、不受不施派に関連し小湊誕生寺の末寺になったことが、寺の過去帳や境内の日樹上人供養塔から推定される。池上本門寺15世であった日樹(1574年-1631年)は、身池対論と呼ばれる、受布施派と、不受布施派をめぐる身延山久遠寺と池上本門寺の論争(公庭対決)を起こした不受不施派の人物で、天台学偏向に走る関西学派に反対して、日蓮の遺文を中心とする祖本主義を唱える関東学派を代表する存在であった。元和5年(1619)に池上本門寺に普山し、中山法華経寺の日賢、小西談林の日領、平賀本土寺の日弘等と共に不受不施義を主張し、国恩の供養は受けるべきだとする受不施義を唱える身延山久遠寺側の日乾、日遠、日暹等と対立した。寛永3年(1626年)9月15日に、徳川秀忠の室崇源院が没すると、江戸幕府は同年9月23日から26日までの間、各宗の僧侶に対して増上寺での供養のため諷経を命じたが、日樹は謗法供養になるとして拒否し、これが起因となって身池対論が惹起されることになる。江戸幕府の裁決で日樹は信州飯田に流罪となり、池上本門寺の歴代から除歴されたが、のちに復歴した。
建築[編集]
江戸時代末期に本堂を建立し、大正3年と昭和46年に修復された。その後、庫裡、客殿が新築された。
仏像[編集]
- 日蓮聖人坐像(寄木造、彩色、王眼。)の台座裏の銘文には、寛文元年(1661年)に大野(現在の千葉県市川市)の法蓮寺18世日完が正永山了性寺の祖師像として開眼したと記される。日完は不受不施派に属した一人として寛文5年(1665年)12月に流罪となり、伊予吉田の伊達宮内少輔に預けられたが、おそらくこの事件に連座した了性寺から不受不施派ゆかりの当寺に移されたものと思われる。