金澤覚太郎
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金澤覚太郎(かなざわ かくたろう、1906年6月23日ー1970年9月15日)は、放送人,放送研究家。
人物[編集]
岡山県高梁市出身。1930年東京帝国大学法学部卒、33年満州電信電話公社に入り放送に従事、新京中央放送局長、満州放送総局副局長などを務めた。この間ドイツで放送事業を研究、また満蒙の民族土語を採録した。敗戦でシベリアに抑留され、帰国後、電通系の東京放送開設準備など民放ラジオ創業に参加、1951年ラジオ東京(後の東京放送)設立と同時に編集局長、調査局長を経て58年日本教育テレビ(テレビ朝日)編成局次長、1962年民間放送連盟放送研究所副所長となり68年退社。この間1964年から国語審議会委員を4年間務めた。
著書[編集]
- 『ラヂオの性格』日本放送出版協会, 1941
- 『商業放送の研究』(電通広告選書) 日本電報通信社, 1951
- 『テレビジョン その社会的性格と位置』東京堂, 1959
- 『テレビの良心 情報化社会における課題』東京堂出版, 1970