田村幸雄

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田村 幸雄(たむら ゆきお、1893年(明治26年)7月27日 - 1982年(昭和57年)6月6日)は、日本陸軍の軍人であり、陸軍士官学校の教官時代に「健兵対策 軍隊給養改善」を出版した人物である。

生い立ち[編集]

山梨県笛吹市一宮町小城に生まれる。田村島吉・いしの三男として誕生、曽祖父の田村長兵衛(俳号:松斎其白)は松尾芭蕉の七代目の弟子である。

略歴[編集]

  • 1914年(大正3年)9月 - 地元日川中学を卒業して、陸軍経理学校に入学
  • 1916年(大正5年)12月 - 近衛師団経理部部員
  • 1917年(大正6年)6月 - 野砲兵第16聯隊(国府台)姫野与吉聯隊長の時、神社、仏閣の建立
  • 1920年(大正9年)4月 - 野砲兵第26聯隊(朝鮮)
  • 1921年(大正10年)7月 - 第20師団経理部部員(朝鮮)糧食の経理を深く研究して大陸軍の為に貢献する事を決心する
  • 1924年(大正13年)8月 - 野戦重砲兵第4聯隊(四ツ街道)バリカン式桑摘機械の実用新案特許を取得
  • 1927年(昭和2年)7月 - 台湾山砲兵大隊(台北)、炊事調理参考書(初出版)
  • 1931年(昭和6年)8月 - 歩兵第21聯隊(島根県浜田)御稜威神社の建立
  • 1934年(昭和9年)4月 - 歩兵第68聯隊(満州駐屯)
  • 1936年(昭和11年)3月 - 陸軍戸山学校、本格的に糧食の研究の機会を得る
  • 1937年(昭和12年)2月 - 陸軍主計少佐に進級
  • 同年9月 - 陸軍戦車学校、兵食給養の改善、天日湯沸器の発明、赤痢患者ゼロを達成。戦車学校の実績が教育総監から高く評価されて病人の多い陸軍士官学校の教官に抜擢される
  • 1939年(昭和14年)11月 - 陸軍士官学校の教官
  • 1940年(昭和15年)8月 - 陸軍主計中佐に進級。相武台碑の建立、山梨県甲府の山崎石の使用、予算約二万円
  • 1941年(昭和16年)3月 - 陸軍糧秣本廠々員となり「糧食給養の研究」、「見直さるべき野草の給養」、「酵素給養の研究」等多くの研究論文を主計団記事に発表
  • 1941年(昭和16年)12月 - 「健兵対策 軍隊給養改善」四六版600頁を陸軍士官学校から出版
  • 1942年(昭和17年)-1944年(昭和19年) - 陸軍糧秣本廠の研究科長と同時に食糧学校の教官、陸軍中野学校の教官、糧秣廠青年学校の校長、内閣科学技術審議会専門委員、ハト麦協会委員、陸軍戦車学校、研究部員等を兼職して、念願であった大陸軍全体への給養指導に当たる。更には携帯口糧、兵糧丸の改善、野草食品、糧食加工品、等の資料を携えて海外の戦地であるダナン、サイゴン、タイ国、ビルマ、シンガポール、ラバウル、ブーゲンビル島、サイパン島、満州への出張指導に当たる。

趣味[編集]

国府台時代

江戸川での魚釣り、古瀬主計、小林計手、布施計手、鎗田蹄鉄工長等釣り仲間と鱸、鰡、鯉を獲る。鰡の大漁、大物の鱸、1メートルの鯉等

朝鮮時代

小室静聯隊長の頃、仁川で狩猟大会があり、朝鮮新聞社から懸賞として銀メダルが用意された。獲物として雉3羽、鶉5羽、鴨1羽を仕留めて見事優勝した。

四ツ街道時代

酒々井川での魚釣り。鯉、鮒、鰻、鰌、等を上官、同僚達と獲り楽しんだ

浜田時代

浜田川、日本海での魚釣り、鮒、山子、鮎、鯊、鰻、鰈、赤鯛、鯵、烏賊、等を上官、同僚達と獲り楽しんだ

運の良さ[編集]

  • 朝鮮時代に狩猟大会で優勝して朝鮮新聞社から銀メダルを獲得した
  • 台北の練兵場での競馬レースで愛馬が優勝した
  • 鞄の紛失事件、2回あるがいずれも見つけ出し手元に戻った。1度は浜田での秋季演習で炊事軍曹に預けたが間違って他人の車に乗せられて紛失、2度目は南方指導の時、ジャカルタのホテルでボーイが間違えて他人の車へ乗せてしまった。
  • 満州駐屯、匪賊討伐の頃、松田商人と山へ雉狩りに行くことになった。仕事の関係で一足遅れて行く予定であった。一足早く出かけた松田商人は匪賊に会い殺されてしまった。
  • ニューギニア転任辞令2回。1942年(昭和17年)〜1943年(昭和18年)2回とも後任が決まらずに他の人が赴任したが、残念ながら一人は赴任後間もなく、もう一人は赴任する途中で海上で戦死してしまった。

叙勲[編集]

  • 1943年(昭和18年)4月10日 - 従四位、勲三等瑞宝章、陸軍主計大佐、田村幸雄

参考文献[編集]