池田修治
池田修治(いけだ しゅうじ、1975年 - )は日本のロードレースライダー。東京都出身。当時流行していた走り屋上がりのバイクレーサー。いわゆる「峠の走り屋」ではなく、東京近郊の湾岸エリアで腕を磨いてレース界へ進出した人物。
来歴[編集]
1992年にSS:NB250クラス(4ストローク250ccエンジン)レースに出場。当時のSS:NBクラスはCBR250RRが圧倒的有利とされながらZXR250にて参戦した。初参戦時、自己資金によるサポート無しの個人参加にも関わらず3位入賞。スポット参戦ながら3戦目にして初優勝を果たす。優勝時のレースにおいては筑波サーキットのNB:SSクラスのコースレコードを樹立している。同年、後半はKawasakiがサポートする月木レーシングに所属して参戦し総合ランキング4位となる。
SS750クラスにもスポット参戦していたが小柄な体格だった為、大型車両を乗りこなすのに苦戦し、目立った成績は残されていない。
1993年に国内A級ライセンスを取得する。jha(城北ホンダオート)へ移籍する。東日本NA250クラスにフルエントリーし全12戦中3回優勝し総合ランキング3位となる。
1994年も同様にjha(城北ホンダオート)より参戦する。東日本NA250クラスにフルエントリーし全12戦中2回優勝し総合ランキング6位となる。同シーズン第9戦SUGOラウンドでは5台による激しいトップ争いが繰り広げられていた、3位を走っていた池田は2位の藤原をアウト側から抜きに出た。その際に藤原がハイサイドを起こし、跳ね上がった車両が池田の車両を直撃、後続車6台が絡む多重クラッシュとなった。その時の怪我により以後のレースは欠場している。このため、翌年はGPクラスへの参戦が予定されていたが、怪我の具合から見て頓挫する事となった。
1995年にテストライダーとして復帰するも中半にしてバイクレース業界から引退した。
エピソード[編集]
雑誌CYCLE Soundsのインタビューによると、本人曰く、当時好きだった彼女とのデート資金を稼ぐ為、小遣い稼ぎでレースに参戦していただけで未練は無いと語っていた。レース参戦当時は高校生だった為、特別な練習などは行っていなかったと言う。天性の才能と質を持ちながらも、その素質を維持し続ける事は無かった。
バイクのコントロールにおいては群を抜くセンスとテクニックを持ち、前輪に過重を掛けるスタイルでリヤタイヤのスライドをコントロールする独特な走行に闌けていた。暴れるリヤタイヤを絶妙にコントロールする姿は観る者を魅了するほどであった。
本人もフロントタイヤさえ逃げなければ(滑らなければ)転倒することは無いと語っていた。現にレース中及びテスト走行中の単独転倒は1度も無かったとされている。
NA昇格後2戦目の筑波ラウンドでは2位以下に大差を付けて独走状態であった、余裕を持って最終コーナーへ進入した池田は左拳を掲げたままリヤタイヤをフルロックさせグラベルベッド寸前まで華麗なドリフトパフォーマンスを見せた。
故、加藤大治郎と一緒に走った際に、大治郎は、いつ飛ぶか心配で後ろに付く事が出来なかったが本当にマシンコントロールが上手いと語っていた。一方で池田は本気で限界まで攻めたのに大治郎を引き離す事が出来ず、大治郎のような相手が居たら勝ち目が無い、レベルが全然違うと語っていた。(この時、大治郎は市販車ベースのNSR250に乗っていたのに対して池田はレース専用車両のRS250に乗っており苦汁をなめさせられる結果となった)CYCLE Sounds:加藤大治郎密着日記より抜粋
また天候不良時のレースに滅法強く、優勝したレースの全てが雨天時?だったと記録されている。 同期のライダー:阿部典史・武田 雄一・辻村猛等の強豪ライダーが多数存在したバイクレース全盛期の1人だった。
同期ライダーの証言[編集]
1994年 東日本シリーズで池田選手とライバルチーム(SSフクシマ所属)として争う事になった。
初めての印象から、なんて細身で小柄なんだろうと、そしてツナギ(レーシングスーツ)を脱いだ姿を見てさらに驚いた。
あんなにも華奢な体つきで80馬力近いマシンを振り回す様な人にはとても思えなかった。
しかし、その秘めたるポテンシャルの高さは本物だった。
池田選手は城北ホンダの第二ライダーとしての扱いであった為マシンには、あまり恵まれていなかった。(城北ホンダさんに関しては既に倒産、当時の財政状況も良くは無かった)
それでも池田選手は完走し大切なマシンを無事にピットまで返し、なおかつ、それなりの成績も残している。
ストレートで抜いてもコーナーで抜き返される、上記の通りの天性のセンスと素質を持った選手だった。
一度、池田選手が得意としてた筑波サーキットでお願いをしてトレース走行をさせて貰った事がある、とても付いて行けなかった。
本当にマシンコントロールに闌けた方で、リヤタイヤのスライドから通常ならハイサイドとなる状況下でも即座に体制を立て直し、次に起きるウィーブモードを避ける為に一瞬フロントをリフトさせて、その最中にウィーブモードやジャダーを修正するような凄まじいテクニックを持っていた。
当時はそんな選手は居なかった。(現在では同上のウィーブモード・ジャダー回避として多用するライダーも多い)
GPシリーズに池田選手が参戦していたら、更にその先へ行って、世界も目指せる方だと思っていた。
同期ライダーの証言2[編集]
TSR(テクニカルスポーツ関東所属のS)
上記選手と同様に1995年に日本選手権で池田選手と争う事になる。
(私は池田選手の1つ年下で1期後輩に当たる。)
容姿は上記証言の通りで、とてもバイクレーサーには見えなかった
しかし、それは素人目の話で体脂肪率5%以下で筋肉だけを残したバイクレーサーとしては理想の体型だったかもしれない。
池田さんは本来であれば名門チームの1番機の役割を果たす程の実力とテクニックがあった。
噂に縁ればNA2期目はGPシリーズに出場予定だったらしいが、125CCクラスからのGP出場オファーだったので、
全て断って東日本NAに残留したとされている。スポンサーから見ればGP125での優勝を目論んでいたようだが、池田選手は250CCクラスでのエントリーに拘りを持っていた。
自身の能力を発揮できるのは250CCクラスのみと括り付けていたようだ。
多分、池田選手が得意とするリヤスライドコントロールはある程度のタイヤの太さと即座にフロントアップできるパワーマシンが必要だったからと推測される。実力に関しては超1級の腕を持つライダーであった事は確実で良いマシンにさえ恵まれていたら東日本NAクラスなど全て優勝できたと思う。
加藤大二郎との記述が残っているが、私もその時に同席していた。
大二郎のNSRは市販車ベースのNSRとは言えフルチューンされており、池田選手はテスト用のノーマルRS250Rだったので(苦汁をなめさせられる結果となった)とされているが同じプロレーサーとしての目線から見れば大二郎を凌駕していたのでは無いかと感じていた。多分、続けていれば世界GPまで行けたであろう勿体無いほどの実力と技術を持ち合わせていた選手だった。
メカニック証言[編集]
池田君の記録が残っているのに感激して・・・
当時、私は城北ホンダオートでチーフメカニックとして池田君の担当をしておりました。
まず月木レーシングさんから池田君を引き受けた時の話からです。
レーサーとして最高の素質を持ったライダーなのは確かだけどマシン関係で泣かされますよ!と言われました。
私は???と思いましたが、直ぐに思いしらされる事になりました。
1回目のテストでチャンバーに穴を開けてきたのです。
それはバンク角が深過ぎてチャンバー膨張部分まで路面に擦り付けてきたと言う事になります。
当時の城北チャンバーは最高の自信を持っており、そのような事は有り得ないと思いましたがチャンバーを代えても同じ用に穴を開けて帰ってくるのです。
そこで最初に取り組んだのが池田専用チャンバーの作成でした。
性能は落とさずバンク角を稼げるチャンバーを作る事。
本当に苦戦させられる作業でした、今までに無い全て手作りで溶接して行くのですから・・・
その他[編集]
ヘルメット後部にはシンボルマーク≪蜘蛛≫が描かれており、それは8本足により転倒しないと言う意味が込められていたと言う。
見た目とは裏腹にコーナーの突っ込みなどは非常に好戦的な一面も見せ、強引にマシンをねじ込んで来る事から、他の選手からは毒蜘蛛=venomous spider(ヴェノマス・スパイダー)略して≪ヴェスパ≫と呼ばれる事もあった。