東洲斎写楽
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は江戸時代の浮世絵師である。正式名は「東洲斎寫楽」である。
概要[編集]
1794年(寛政6年)5月、東洲斎写楽は突然に28枚の新作浮世絵を売り出し、鮮烈なデビューを果たした。10ヵ月間で約145点の浮世絵を売り出し、1795年(寛政7年)1月に12点を発表した後は、姿を消した[1]。 経歴や本名は明らかにされていない。版元はすべて蔦屋重三郎である。歌舞伎役者を描いた大首絵、狂言師、相撲取りなどに題材をとった[2]。
写楽の特徴[編集]
デビュー作にみると、高価な雲母の粉を使いコストをかけていること、手の表現が独特であること、コストの高い上質の和紙を使用している事、人物をデフォルメして個性を描いている事などの特徴がある[3][4]。
しかし、写楽の絵は当時の歌舞伎役者からは反感を買ったという[5]。大首絵は28点がある[2]。役者の個性を描くことは、美男子や美人と求める当時の江戸庶民からは支持されなかった。それが突然消えた理由となった可能性がある。
人物[編集]
40名余りの作者が想定されたが、『浮世絵類考』記載の阿波(徳島県)藩のお抱え能役者で武士の斎藤十郎兵衛説が最有力である。ギリシャの国立コルフ・アジア美術館に写楽の肉筆「扇面画」が残されており、ここから写楽の筆遣いを観察することができる。マイクロスコープで観察したところ、葛飾北斎や喜多川歌麿そのほかの絵師とは明らかに筆致が異なっていた。斎藤十郎兵衛の実在が疑われていたが、史料から実在は明らかになっている。
「東洲斎写楽」の文字を入れ替えると、「斎東洲=斎藤十(郎兵衛)」となる。
それでは能役者としての活動があるのに、浮世絵師の活動ができたのであろうか。これについては江戸城の能役者は半年詰番、1年詰番がり、半年交代または一年交代で職務を行う。半年詰番であれば、半年間は自由の行動できる時間があることになる[6]。写楽は寛政の改革松平定信が罷免された直後に登場した。わずかに規制が緩んだ時期に登場したといわれる[7]。
斎藤十郎兵衛の経歴[8][編集]
- 1763年 - 斎藤十郎兵衛生まれる。推定五世斎藤与右衛門の子。1761年生まれの説もある[6]。
- 1771年 - 斎藤与右衛門の住所を「八丁ほり地蔵はし」と記載[9]。
- 1772年2月 - 父斎藤与右衛門没、享年66歳。妻は土圭之間番守崎新兵衛の娘[10]
- 1776年 - 斎藤源太郎が宝生新之亟や宝生万作の脇ツレとして活動。斎藤十郎兵衛の若名と推測される[11]。
- 1794年 - 東洲斎写楽、大量の浮世絵を出版する。署名は「東洲斎寫楽」「寫楽」の2通り。
- 1799年 - 太田南畝の周辺で『浮世絵類考』なる。山東京伝、式亭三馬が増訂に関与する[12]。
- 1810年 - 喜多七太夫支配の地謡22名の中9人目に「無足 父与右衛門 斎藤十郎兵衛 午四十九」と記載[13]
- 1813年11月22日 - 江戸城能「八嶋」の脇ツレに 「万作弟子 斎藤十郎兵衛」が出演する[14]。
- 1816年4月15日 - 江戸城能「鉢木」の脇ツレに 「万作弟子 斎藤十郎兵衛」が出演する[15]。
- 1818年7月17日 - 斎藤十郎兵衛母没 享年72歳[16]。
- 1820年3月7日 - 斎藤十郎兵衛没 享年58歳。[16]
辰3月7日 釈大乗院覚雲居士 八丁堀地蔵橋 阿波公御内斎藤十郎兵衛 行年五十八 千住ニテ火葬」
再評価[編集]
明治時代、ドイツ人ユリウス・クルトが、著書『Sharaku』により写楽を高く評価した。これにより欧州で知られるようになった[17]。
作風[編集]
一般的に4期に分けられている。
第一期[編集]
寛政6年5月狂言を描いた雲母刷りの背景のある大首絵。落款は「東洲斎寫楽」である。
第二期[編集]
寛政6年7月8月狂言を描いた雲母刷り全身二人立ち。
第三期[編集]
寛政6年11月興業狂言を描いた背景入り細絵と半身像の間版。落款は「寫楽画」となる。
第四期[編集]
寛政7年1月から2月にかけて細版役者絵。芸術的凋落が目立つ時期である。
注[編集]
- ↑ 浮世絵師「東洲斎写楽」の正体は誰か(一考察)
- ↑ a b 写楽再見
- ↑ 浮世絵ミステリー 写楽~天才絵師の正体を追う~』NHK,2011年5月8日(日)放送
- ↑ 歴史探偵『写楽 大江戸ミステリー』NHK,2021年9月29日放送
- ↑ 謎の天才絵師・東洲斎写楽の「大首絵」を詳しく解説!
- ↑ a b 内田千鶴子(1984)「写楽=能役者説の新史料」浮世絵芸術 79(0), pp.9-12
- ↑ 大石 慎三郎(1991)「浮世絵研究会第四十回記念シンポジウム 写楽からの江戸文化論」浮世絵芸術 102 巻
- ↑ 表章(2015)「写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録」能楽研究39巻,pp.21-58
- ↑ 『武鑑』須坂屋版
- ↑ 『家譜』
- ↑ 『清尚控』
- ↑ 浮世絵類考奥書
- ↑ 文化7年猿楽分限帳
- ↑ 高知県立図書館蔵
- ↑ 『徳川礼典録』
- ↑ a b 『法光寺過去帳』
- ↑ ユリウス・クルト「写楽 SHARAKU」アダチ版画研究所