東大生山中湖ボート転覆事件

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東大生山中湖ボート転覆事件(とうだいせいやまなかこぼーとてんぷくじけん)は、1984年4月15日未明に、富士五湖の一つ山中湖で起きた水難事故。

概略[編集]

東京大学では、入学すると文科1類から3類、理科1類から3類に分けられ、第二外国語別などによってクラス分けがされた。当時、二年生が「オリエンテーション」をする「オリター」として数名が参加し、新入生のほぼ全員が勧誘されて参加していた。山中湖畔のロッジに宿泊して飲酒などするのが通常だが、文科三類のあるクラスで、男子6人が深夜、飲酒してボートに乗って湖に乗り出したところ、ふざけて舟を揺すったりする者がいて湖の中ほどでボートが転覆した。二年生の市野川容孝だけは泳いで岸にたどりついて助かったが、ほかの高橋秀年(23)、滝川元一(20)、秋沢三郎(20)、菅谷洋(21)、永沼一真(19)の五人が死亡した。

市野川は重要参考人として警察の取り調べを受けたが、のち文学部社会学科から大学院へ進み、東大教養学部の教員となり、教授となっている。その際、30歳近くなって東大に入り直し、この事件にも新入生として参与していた羽入辰郎が『学問とは何か』(2008)で市野川の当時の行為を断罪した。「市川」という変名になっているが明らかに市野川のことである。それは、ボートの上で水をぱちゃぱちゃやったりしてふざけ、転覆の原因を作ったのは市野川だとか、水中から引き揚げられて気を失っている学生が息を吹き返さないため、市野川が胸に湯をかけたため死に至ったというもので、市野川はmixi の自分のコミュで、東大教員になる話があった時、この事件のことを言われるからと辞退したが慰留され、教員になったと弁明したが、オープンな場では弁明していない。Wikipediaの市野川の項目にこの件について記述する者があったが、プライバシーだとして異議が出され、現在では削除されている。