智顗
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智顗(ちぎ、538年 - 597年11月24日)は、天台宗の開祖である。中国・南北朝時代から隋時代の僧で、智者大師、天台大師といわれる。
概要[編集]
538年、中国荊州(現、湖南省)華容に生まれる[1] 7歳から寺に通い[2]、17歳の時戦乱のため両親を失い、18歳で出家する。560年光州の大蘇山で果願寺の慧思禅師に学ぶ。法華経を読み、法華三昧との悟りを開く。その後、陳の都金陵(南京)に赴き、8年間、法華経の大智度論、次第禅門を講話する。しかし38歳のとき、真に理解したものがいないことを憂え、575年(太建7年)から天台山(淅江省)に11年間隠棲する。山頂に華頂峰で魔物が現れたが誘惑に屈せず、明けの明星により第二の悟りを開く。
48歳の時、永陽王に逍遥されて光宅寺で『法華文句』の講義を行った。591年、晋王(後の煬帝)に招かれ、菩薩戒を授ける。隋の皇帝煬帝から尊敬され、「智者」の名を贈られ、智者大師と呼ばれた。煬帝の求めに応じ、『維摩経疏』を著す。
荊州に戻り玉泉寺を建立した。 597年11月24日、天台山西門の石城寺(新昌大仏寺)で端座して入滅した。60歳。
業績[編集]
法華経を中心とした天台教学として、天台三大部[3](法華玄義(539年)、法華文句、摩訶止観(540年))をまとめた[4][5][6][7]止観〈座禅〉・写経・読経により自分の心と宇宙が対応することを知る。 一念三千は迷いの中に悟りがあるという思想である。
天台三大部は日本の仏教界にも多大な影響を与えた。天台宗では、天台大師を高祖、伝教大師を宗祖とする。