日野晃博

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日野晃博(ひのあきひろ)とは、株式会社レベルファイブの社長。

子供時代[編集]

やりたいことはとことんやり尽くす少年だった。 高校生時代、パソコンを手に入れておりプログラミングもできる様になっていた。 二十歳になると、地元のコンピューター専門学校へ進んだ。 卒業を控え、エンジニアとして入る予定だった。

ドラゴンクエストとの出会い[編集]

その年、ある同僚からゲームの話が出る。当時ドラゴンクエスト3は社会現象になっていた。 日野自身は半信半疑でファミコンとそのソフトを買った。 ドラゴンクエストは日野にとって全く新しい経験となった。

ゲームプログラマーへ[編集]

プレイ後、職種を方向転換。自作のゲームを手に地元のゲーム会社に売り込んだ。 80年代当時、ゲームプログラマーの求人は無かったが、日野の熱意と情熱により試験を受けることになった。 合格後、本格的にプログラミングができる会社に移動しゲームクリエイターの人生を歩み始めた。 入社2年目はメインプログラマーまで昇格した。その後3Dゲームの研究に入る。当時はRPGなどのゲームが多く、3Dには手をつけていなかった。 1996年に発売した「オーバーブラット」は20万本の売上を記録した。しかし、日野は満足そうには至らなかった。自分でやりたい企画が通らなかったことがあったためだった。SCEの支援を受けて相談した所、「自分で会社を作りなさい」と言われたという。

設立へ[編集]

その後、会社を去り、会社を設立をする。レベルファイブという名前だった。『通信簿の5、評価の高いゲーム会社にする』という言葉だった。 その2年後の2000年に発売した「ダーククラウド」」は斬新なシステムにより100万本以上の売り上げを記録した。 ある日エニックス(現:スクエア・エニックス)のオファーがあった。その当時、レベルファイブは別の作品を手掛けていた。 日野社長は「ドラゴンクエスト」の思い出話をした所、新作のテストを作ってみないかというのがあった。 2004年に発売した「ドラゴンクエスト8 空と大地と呪われし姫君」だった。それまでの2Dドットから3Dに生まれ変わり、新たなシステムの導入などがあった。370万本の売上を記録した。

ゲーム制作[編集]

日野社長は自分が子供時代に夢中になっていた物を参考にしてゲームに取り入れている。

代表作[編集]

参考[編集]

  • イナズマイレブン誕生物語