山本老事件

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山本老事件(やまもとろうじけん)は、1928年に広島県で起きた殺人事件。老人女性が犠牲となった。

概要[編集]

1928年11月24日、広島県比婆郡下高野山村(現在の庄原市高野町)で、女性Aが、三升炊きの飯櫃に頭から突っ込んだ状態で死亡しているのを発見された。女性Aの主治医は急病(脳溢血)による事故死であると診断。しかし、警察医の香川卓二が死体解剖を行い、右手で首を絞めたことによる扼殺と鑑定。

11月27日、Aの養子の男性Yを尊属殺人で身柄を拘束。当時、2日間に渡って拷問を加えた上で、白紙に署名捺印をさせて、検事訊問調書と第一回予審調書を作成させた。調書には、村の財産家である妻のAが、夫の死亡後も養子のYに財産管理を任せなかったことから、貸金証書の管理を巡るトラブルが生じて、頸部を突ついたところ動かなくなったため、大騒ぎになることを恐れて右手で首を15分程度絞めた。動かなくなったため、遺体を飯櫃に転倒したかのように偽装したとしている。なお、検事訊問調書では、左手で首を絞めたとなっている。

裁判経過[編集]

当時の刑事訴訟法では、仮に拷問を加えたとしても自白が絶対の証拠となることが通例だった。そのこともあり、裁判では一貫して否認したYだったが、1930年1月24日、広島地方裁判所は、尊属殺人無期懲役の有罪判決を言い渡す。控訴するも、1930年12月26日に広島控訴院は、再び無期懲役の判決を言い渡す。1931年4月8日、大審院が上告を棄却したため、Yの無期懲役が確定する。判決では、Yが貸金証書の保管を巡るトラブルからAを囲炉裏端で頸部を突いたところ、仰向けで倒れたため、右手で扼殺したとした。

判決確定後、無実を訴えながらも模範囚として刑務所に服役していたYは、1945年11月12日に岡山刑務所から仮出獄。その後、1952年のサンフランシスコ講和条約締結による恩赦により減刑されたため、公民権を回復した。

再審請求[編集]

仮釈放後、Yは再審請求を目指して活動。しかし、戦争による火災によって一審判決の原本と控訴審・上告審の謄本を除いて記録は消失していた。しかし、警察医の鑑定書控が発見されたため、警察医の鑑定を基にして弁護側が再鑑定を行った結果、Aは急性心臓死等の病死か溺死による事故死であるという新鑑定を得たとして、1983年9月9日に広島高裁に再審請求する。他に原判決で殺害の動機とされた財産トラブルがないこと、認定された殺害時刻の後にAが生存していた目撃証言があること、炊事場での殺害が家屋の構造からして不自然であることを新証拠として提出。しかし、1987年5月1日、広島高裁は再審請求を棄却。1990年10月17日、最高裁は刑事訴訟法応急措置法一八条の適用により、特別上告を棄却した。

1992年4月24日、広島高裁に2度目の再審請求を行う。しかし、1994年4月29日にYは死亡(享年95歳)。そのため、1994年5月26日に広島高裁の決定により、再審請求審は終結。

Yの死亡後、Yの妻ら遺族によって再審請求が継承され、第三次再審請求が行われるも、2003年10月20日に最高裁判所第一小法廷(横尾和子裁判長)は、刑事訴訟法応急措置法一八条の適用によって上告棄却された。

用語一覧[編集]

  • 刑事訴訟法応急措置法一八条 - 旧刑事訴訟法下で公訴され、有罪判決を受けた事件の再審請求で高裁が下した決定に対して、特別抗告により最高裁判所に再審請求が申し立てられた事件について、刑事訴訟法四一一条三号が準用されない。そのため、本事件では旧刑事訴訟法および旧刑事訴訟法応急措置法が適用されるため、現在の刑事訴訟法では認められている再審請求の棄却に関する異議が認められない。

参考文献[編集]