将棋無双

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将棋無双』(しょうぎむそう)は、江戸時代の将棋名人(七世)・伊藤宗看(三代)が作成した詰将棋集。幕府献上用に作られた、いわゆる献上図式である。享保19年に献上された。大胆な構想と格式高い手順、そして何よりその難解さから『詰むや詰まざるや』(ないし詰むや詰まざるや百番)の異称をとる。最近に至るまで解答はおろか原図の所在さえ不明だった為、作者の作為が分からぬ疑問局も少なくなかったほどである。弟の贈名人・伊藤看寿が作成した『将棋図巧』と並び、古今詰将棋史上の最傑作とされている。[1]

百番いずれも傑作揃いであるが、特に有名なのは、無仕掛の記念碑的作品である第十二番、「神局」と呼ばれる第三十番、歩頭馬鋸引きの第七十番、当時としては最長手数225手詰めの第七十五番[2]、「大迷路」の名を冠せられた巻末第百番などである。また、余談であるが、第十七番、第三十六番、第四十六番、第八十一番の四題は「これを詰めれば初段の力あり」と一般に云われている。これは十一世名人・伊藤宗印が言い出した、と伝えられている。

呼称について[編集]

『将棋無双』の原題は『象戯作物』(しょうぎさくもつ)であるが、他の古図式らと同じく原題で呼称される事は一般にない。商業出版時に冠せられる俗称が、一般的な呼称として通用される事が多いのだが、本書は長らく「家元刊本」のみで商業出版がなかったため、『図式百番』『詰物百番』『三代宗看図式』などと色々の呼称で呼ばれることとなった。現在一般に通用している『将棋無双』の名は、昭和1年岩木錦太郎小林豊両氏によって贈られたものである。なお、原題を『将棋作物詰書』と勘違いした文献も多いが、これは問題書ではなく解答書の方のタイトルである(しかも正確には「詰書」ではなく「書」。「誥」は告げる、諭す即ち解答の意であり、「詰」は誤読である)。

逸話[編集]

  • 『詰むや詰まざるや』とも呼ばれる本局は、作者が解答を敢えて発表せずにおいたのではないか、と長らく(戦後まで)言われてきた。事の詳細はこうである。即ち、弟の看寿が『将棋図巧』を献上した際に、その天才ぶりを危惧する余りに、三年間の幽閉を命じられてしまった。それで同じく幽閉の憂き目に遇うのを恐れて、解答を形に纏めて発表することはしなかった、というものである。但し、これは結論から言えば、全くの作り話である。将棋無双の解答本は昭和41年に内閣文庫より発見され、また、実際の献上は将棋無双の方が20年以上も早かったのである[3]。看寿の幽閉も実際には無かった。余りにも本局が難解であることから、後世の人が思わずでっちあげたものであろう。
  • 明治時代、時の名人・伊藤宗印のところに大矢東吉七段がやってきて、八段の認定を頼んだ。このさい宗印は『将棋無双』の全問を詰めたら八段をくれてやる、といい、東吉は簡単なお題だと思ったが、とうとう解けずに諦めたという。
  • 昭和4年大森書房の詰将棋研究会から『詰物百番』と題して、初めて将棋無双が商業出版された。無双の不完全作(不詰作)についてはそれ以前、いろいろの諸説があったが、少なくとも不詰が幾つかは含まれているものと考えられていた[4]。ところが発表された書籍内では全ての問題に正解答が付せられていたため、「詰まない作品の解答は木村義雄八段(当時)につくってもらったのだ」とか「詰まない作品を詰めてしまうとは大したものだ」などと色々な世評が飛び交った。当時はまだ解答本が未発見だった為、編集者が正手順を推測したのである。こんにちではこの『詰物百番』は様々な点で「怪しい」書籍として一般に認識されている。

その他[編集]

  • 一般に、献上図式は名人への昇進が決まった八段時に作成するのだが、宗看は余りにも昇段が速過ぎたため、名人に就任してから6年後に献上することとなった。
  • 解答書が内閣文庫から見つかったのは昭和41年。一般に献上図式は「問題書=立派な刊本」「解答書=筆写本」であることが多いのだが、この将棋無双の解答書は例外的に、りっぱな刊本の解答書であった。
  • 現代まで見ても数少ない「81格全配置」(玉の初期位置が81枡すべてを網羅している)の詰棋集でもある。

脚注[編集]

  1. 但し技巧的なことで言えば『将棋図巧』の方がやや優っているとも云われている。しかしながらその難解さで云えば古今史上最高作品であることは間違いない。
  2. 当時『将棋大矢数』の393手詰めの作品が有るには有ったが、これは現在では完全作として認められない「手余り」を含む作品であり、別格として扱うべきである。(なお『将棋無双』が作成された段階で「手余り」は既に認められていない。)ちなみに、現在の最長手数作品は橋本孝治1986年に発表した『ミクロコスモス』であり、手数はな・なんと!1525手詰めである。
  3. それぞれの献上年は、将棋無双が1734(享保19)年、将棋図巧が1755(宝暦5)年。
  4. 現在では、不詰作品は6作であることが判明している。但しその内1作(第89番)は単なるミスプリの可能性が高い。(誤:4一成香 → 正:4一成桂)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]