定型発達者話法

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

定型発達者話法(ていけいはったつしゃわほう)とは、いわゆる「東大話法」の異称である。以下では簡略化するために「東大話法」と記述する。

概要[編集]

「旧・東京帝大(現・東京大学)出身者に特有な話法」とされるが、その時点で「東大話法」に引っかかっている。
論理学の分野においては、「前提」と「導出規則」が共有されているときに、ある命題について「正しいのか、それとも正しくはないのか?」を検証し、それを判断(意思決定)の材料にして問題解決するという態度が基本的にある。
ところが、定型発達者は議論の前提となる「前提」からして否定する。定義公準公理もクソもない。そうなるとユークリッドにも歯がたたないし爪も立たない。そもそも前提からして矛盾があり、そうなると「あらゆることが証明できる」ようになるため「全能」である。しかしながら「前提に矛盾があっても、当該の論理体系系においては証明不能である」というのが、「ゲーデルの不完全性定理」によって証明されている。
したがって、「私が間違っているというのなら、『私が間違っている』ということを私に納得させろ(当人の論理体系に基づいて、「¬正しい」を証明しろ)!」という話になる。これは無理筋である。勝てるわけがない。

人間生活との関わり・利用[編集]

そもそも、「前提」というのは都市文化においては「共有してなんぼ」のものであるが、そもそも前提を共有する気がなかったら手に負えない。「私の方がランクが上だ」と言えばそれで終わりである。「私は東大卒だけど、あなたはそうじゃないだろう?」というのが「東大話法」であり、定型発達者は「私は健常だけど、あんたは障害者だろう? だから私の判断に従うのが正しい」というのが定型発達者話法である。
「『万人は平等である』は認めるが、『奴隷は人間ではない』ので『万人』には含めない」みたいな人がいたとして、「奴隷も人間である」ことを証明しようとしてもムダである。「奴隷」を「黒人」「ユダヤ人」「インディアン」と言い換えても、同様に「間違っていることは証明不能」である。

関連文献[編集]

  • 安冨歩『原発危機と「東大話法」 ― 傍観者の論理・欺瞞の言語』

脚注[編集]

関連項目[編集]