安政東海地震
安政東海地震(あんせいとうかいじしん)は、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した東海地震。別名寅の大変。
この地震は嘉永7年に起きたが、この後に連続して起きた地震後に安政と年内改元されたことで「みなし安政元年」とされ、安政東海地震と呼ばれる。決して間違えているわけではない。
概要[編集]
駿河国・甲斐国西部と遠江国を襲ったこの地震は最大震度が7という非常に大きな地震であり、マグニチュードは8.4と言われている。
余震が多く、被害も大きかったため現代でも語り継がれ、地震学者の中ではこの地震をデータとして扱い今後の地震の予測などに使っている学者も少なくない。
震度[編集]
駿河湾西部・甲府盆地では7を観測したと言われており、他に東北から四国/九州までの広い範囲が震度4だったため、日本全体が被害を被った。
南海トラフ地震よりも大きかったため、駿河、甲斐、信濃、近江、摂津、越前、加賀では家屋の倒壊被害が見られた。
特に駿河・甲斐ではひどく、駿河ではそれにより火事が発生、甲斐でも同じようなことが起きていた。
被害[編集]
被害は以下の通り
三島宿[編集]
現在の静岡県三島市にある宿場町であり、東海道の宿場町の一つである三島宿では揺れが酷く、建物一つ残らず全て倒壊したとされている。
吉原宿[編集]
現在の静岡県富士市にある宿場町。泥水が3mほど吹き上げ、甲斐と結んでいた富士川渡船・富士川水船等のすべての便が運航を停止した。
駿河・掛川城[編集]
天守閣や門に甚大な被害が発生。武家屋敷や城下町、付近の宿場町ごと倒壊した。
尾張名古屋・摂津[編集]
尾張名古屋では名古屋城の門などが崩れ倒壊。その他にも自社などが倒壊し、4人が亡くなっている。
摂津では有名な「清水の舞台」が倒壊。その後の立て直しで今の形に戻っている。
死傷者・被害の全容[編集]
被害 | 負傷者 | 死者 | 津波 | 建物の倒壊 |
---|---|---|---|---|
安政東海地震 | かなりいたと思われる | 2000〜3000人 | 最大10m | 3万戸超。 |
津波[編集]
房総半島から土佐にかけて津波が発生。特に下田から熊野灘までが大きいと言われている。
また、甲賀で10m、鳥羽・尾鷲で6mを観測している。