大仙古墳

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大仙古墳(だいせんこふん)あるいは大山古墳(だいせんこふん)、仁徳陵(にんとくりょう)は、大阪府堺市堺区大仙町にある前方後円墳である。日本最大の古墳で、世界三大墳墓の一つ[注 1]。世界文化遺産の指定を受けた百舌鳥・古市古墳群の構成資産に含まれている。

概要[編集]

百舌鳥・古市古墳群の百舌鳥エリア中央部に位置している。濠を含む古墳の最大長は840メートル、最大幅は、654メートル、墳丘の長さ486メートルである。墳丘の周囲は三重の濠が取り囲んでいる。 江戸時代の史料には、後円部頂上には大型の石棺があったことが記されている。明治時代には前方部で竪穴式石室の中に長持形石棺や金銅装の甲冑をはじめとする副葬品が納められていたことが確認された。石棺は、蓋石が丸く盛り上がっていて亀の甲羅のようで、縄を掛けるとみられている縄掛け突起が大きく、突起の表面には朱が塗られているのが特徴。関連する資料は、堺市博物館に展示されている。 2018年の調査で、堤の外側に埴輪列が確認されていたが、2021年の調査で、堤の内側にも埴輪列があることが新たに確認され、2重に平行して堤を2キロ以上にわたって1周するように埴輪が立てられていたと推定されている[1]。 2019年7月、百舌鳥・古市古墳群‐古代日本の墳墓群は、ユネスコの世界文化遺産に登録された。 大仙古墳を堺市役所21階展望ロビーから眺めることができる[注 2]が、真上からでないため、森のようにしか見えない。堺市は、観光用気球事業の運行を目指していたが、トラブルが起き、暗礁に乗り上げている[注 3][2]

名称[編集]

かっては中学校の教科書に仁徳天皇陵の名前で表記されていたが、考古学研究者らは、仁徳天皇の埋葬は確認されていないとして、所在地名に由来する「大仙古墳」などと呼ぶようになり[3]、教科書での表記は大仙古墳とされることが多い。他に大仙陵、大山古墳、大山陵などと呼ばれることもある。

住民との共生[編集]

現在は、仁徳天皇のお墓として宮内庁によって管理されており、古墳への立ち入り、公開、学術調査も厳しい制限がなされている。 しかし、かつては住民と共生していた。江戸時代には、濠から水路で、田んぼの用水に使われていた。江戸時代中期に描かれた絵に、樋門(ひもん)の絵が描かれている。江戸時代から明治にかけての古墳の様子を記した資料には、古墳の一部を開墾し、植林、伐採したことや、堤の上で、農耕用の牛が放牧されていたと記されている[4]

建造[編集]

大林組が古代の工法による試算を行っている。それによると、工期は15年8ヵ月、作業員数(埴輪の製造の作業員については除外)は延べ680万7千人(1日当たりのピーク時は2千人)、総工費(埴輪の製造費用は除外)は、796億円とされている[5]。 古墳建設当時の人口や寿命、また大小様々ではあるが全国で本州から九州にかけて約16万基の古墳があり、それぞれに作業人員や費用をかけたと考えると無理があり、謎が残る。[注 4]。また、飛行機などがない当時の人は、誰も巨大な前方後円墳の形を真上から見たことがなかったと考えられる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 他2つは、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵である。この中で、全長は大仙古墳が一番長く、高さはクフ王のピラミッドが一番高く、体積は始皇帝陵が一番大きい。
  2. なお、高額ではあるが、小型飛行機の貸切ツアーもあり、そちらでは前方後円墳の鍵穴形を見ることができる。
  3. コロナやヘリウムの不足などで延期が続いた後、ようやく実現目前となったが、ガスが抜けてしぼんだ状態で発見された。
  4. 大仙古墳自らが粘菌の様に動いて鳥取県の大山から来たという説がある。地球の謎解き2015年12月6日のお知らせ

出典[編集]

  1. 仁徳天皇陵 新たな円筒埴輪列発見 荘厳に古墳装飾”. 産経新聞  (2021年11月19日). 2024年7月17日確認。
  2. 観光都市 飛び立てぬ堺 仁徳天皇陵古墳 気球遊覧事業が暗礁”. 産経新聞  (2024年3月25日). 2024年7月17日確認。
  3. 中学校の歴史 「仁徳天皇陵」改め「大仙古墳」”. 朝日新聞  (2008年3月27日). 2024年7月16日確認。
  4. クローズアップ現代 新発見続々!世界文化遺産 古墳ミステリー”. NHK  (2019年7月18日). 2024年7月16日確認。
  5. 現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設”. 大林組プロジェクトチーム  (1985年). 2024年7月16日確認。

外部リンク[編集]