外山亀太郎

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外山 亀太郎(とやま かめたろう、1867年10月23日 - 1918年3月29日)は、日本の遺伝学者である。

経歴[編集]

1867年、相模国神奈川県愛甲郡小鮎村に生まれる。1892年には帝国大学農科大学(現在の東京大学)を卒業し、養蚕学研究を始める。

当時の日本のカイコはウイルス性の病気が蔓延しており、7割ものカイコが死滅することもあった。それを防ぐには病気に強いカイコが必要である。しかし、これらのカイコは繭が小さいという問題点があった。小さいと、海外から導入する機械が導入できず、国際的な競争力に敗れる恐れがあった。これに危機感を覚えたのが、外山亀太郎である。

外山は、ウイルス性の病気の解明に取り組んだものの当時の技術では解明できず、代わりに病気に強い品種を作ろうと模索した。早速病気に強いカイコを清から取り寄せ、成虫にし、日本の品種と掛け合わせようとしたものの清のカイコは日本の気候に合わず、全て死滅してしまった。

さらに追い打ちをかけたのが、「研究を中断し、養蚕技術の指導者としてシャムに向かえ」 という辞令であった。しかし、これが大きな発見へとつながる。シャムで偶然、熱帯地方の病気に強い品種のカイコを発見。うまくいくと思い、日本から卵を取り寄せて掛け合わせたところ、繭が大きく、病気に強いカイコが生まれた。また、さらに研究を進めるとメンデルの法則を発見した。これを応用し、世界中から様々な品種のカイコを集め、最終的には糸の長さは25パーセントも増えた理想のカイコが完成。日本の絹糸の生産量は大きく増えた。

1918年に亡くなるまでカイコの研究に力を注ぎ、最後の研究場所である東京大学では、現在でもカイコの研究をしている。

出典[編集]

  • 朝日日本歴史人物事典 - 朝日新聞出版