利用者・トーク:Relayer/Sandbox/work8
要出典[編集]
中島健蔵の何? 出典を教えてください —以上の署名の無いコメントは、125.0.12.128(会話/whois)さんが[2008年7月6日 (日) 12:42 (UTC)]に投稿したものです(本文側からノートへ移動 Knaoki による付記)。
海外の哲学者の赤リンクについて[編集]
せめて他言語版を探して仮リンクにするとか、どうしてそういう手間をかけようとしないのですか。--Alexander Poskrebyshev(会話) 2016年3月6日 (日) 14:40 (UTC)
昭和研究会[編集]
昭和研究会が海軍からの期待を集めたものであることを追記Earthbound1960(会話) 2016年5月28日 (土) 23:17 (UTC)
{{誰範囲2|date=2016年3月について
三木の著作「読書遍歴」より、誰=本人がとわかる部分を脚注に追記しました。Earthbound1960(会話) 2016年5月28日 (土) 23:21 (UTC)
{{要出典範囲|date=2016年3月 について
ジャーナリスト名を「ロベール・ギラン」と確認し、出典を追記しました。Earthbound1960(会話) 2016年5月24日 (火) 23:15 (UTC) 「哲学界にとっても実に喪失の大きい年となった」は残したかったのですが、出典が無いか著者の感想(私も同感です)ですので、それに近い出典を記載しました。Earthbound1960(会話) 2016年5月25日 (水) 09:52 (UTC)
ロベール・ギラン アメリカ人では無くてフランス人でした。修正します。Earthbound1960(会話) 2016年5月26日 (木) 21:24 (UTC)
体裁を整えるため書き換えました。Earthbound1960(会話) 2016年5月28日 (土) 23:22 (UTC)
大学卒業後教鞭をとった先[編集]
岩波書店「三木清全集」講談社文庫「哲学と人生」の年譜では、第三高等学校と龍谷大学になっていましたので、一旦は『第三高等学校と龍谷大学』と修正しましたが、その後筑摩書房「現代思想体系」では『大谷大学と龍谷大学』と記載されていることを発見しましたので、両論併記と致します。--Earthbound1960(会話) 2016年6月5日 (日) 22:39 (UTC)
言葉を濁さない|date=2016年3月を削除しました。[編集]
要出典等については全て私なりに解消し、期間も相応に経過したと判断しましたので「言葉を濁さない」を削除致します。また、問題点があれば御指摘ください。--Earthbound1960(会話) 2016年7月5日 (火) 20:43 (UTC)
三木の死を知ったのはギランなのか[編集]
出典として提示されているpdfにはそのような記述がありません。何度か読んだのですがいまひとつわかりません。どの部分のどの文章が「たまたまギランが三木の死を知った」なのか、引用して提示してください。また「たまたま」というのが語尾を濁していないとは到底思えません。これについては明確な提示がない場合、過去の「たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリスト」に記述を戻した上で要出典を改めて貼ります。
要出典等については全て私なりに解消し、期間も相応に経過したと判断しましたので
あなた個人の判断で勝手に剥離されても困るのですが。
なお、問題のpdfで引用されている竹前栄治 『占領戦後史』では、ギランが三木の死を知ったという描写はないように記憶しています[1]。同書は私も何度か読み、出典にも使用しているのでおぼろげに覚えています。岩波現代文庫に収められているので検証は容易でしょう。
それと改めて書いておきますが、小刻みに編集を行うのはやめて下さい。複数の出典などは、ローカルに下書きとして保存しておき、プレビューでチェックすれば済むはずです。むやみに版を増やすのはやめにしませんか。--Alexander Poskrebyshev(会話) 2016年7月21日 (木) 21:20 (UTC)
- 返信小刻みな編修については申し訳なく思っております。「ローカルに下書き保存」の仕方「履歴継承」の仕方も学ばずに記載致しました。今後は小刻みな編修を致しませんのでご容赦ください。また、ギランの件については時間を頂けませんでしょうか?調べなおします。
要出典言葉を濁さないについても勝手に剥がした事をお詫び申し上げます。重ね重ね申し訳ありません。--Earthbound1960(会話) 2016年7月21日 (木) 23:38 (UTC)
Alexander Poskrebyshev様
まずは、引用したページ及び行を記載していなかった事をお詫びします。ご納得頂ける回答になっているか自信は有りませんが、ご一読ください。
『救援運動の再建と政治犯の釈放(3・完)』[2] のページに即して、「たまたまこの三木の死を知ったフランス人ジャーナリストジャーナリスト ロベール・ギラン」と記載したかの理由を記載します。文献が段組編成なので引用部分を文中にカッコでくくってページと段と行数を記載させて頂きます。
「そのきっかけとなったのが、哲学者・三木清が獄死した報道だったと思います。」(53ページ右段7〜10行目) 原文を読んで頂ければ分かりますが、そのきっかけの「その」は政治犯の釈放等をさします。また次のような記載もあります。「外国のプレスは早かったようですが、日本の新聞各紙が三木清の獄死を報じたのは、調べてもらいましたら、どうも10月に入ってからのようなんです。」(53ページ右段27〜30行目)
以上の引用部分より特派員であったロベール・ギランが三木清が獄死した記事を作成しているか、目にしている可能性がある事がこの部分で分かります。ただ、あくまでも可能性があるだけでギランで無い可能性もあります。
次に話題が変わり「山崎早一さんは当時、占領軍に張り付いて取材していた政治記者で、占領軍担当ですから渉外記者ともいっていたと思います。」(54ページ左段11〜13行目)「三木清の獄死については、私の記憶では山崎早一さんから情報を得て知ったのです。」(54ページ左段14〜16行目)「占領軍や内閣記者クラブなどで得た情報をこちらに流してもらっていました。」(54ページ左段18〜19行目)等の記載があり、山崎早一と梨木作次郎との間に、情報のやりとりが出来るような人間関係があった事が読み取れます。
また「山崎さんはロベール・ギランなど同盟通信社に出入りしている」(54ページ右段3〜4行目)「結局、私らは山崎さんと懇意だというロベール・ギランに事情を説明して、府中刑務所の政治犯について様子を見てきてくれと頼んだのです。」(54ページ右段10〜13行目)等の記載があり山崎早一とロベール・ギランの間に関係がある事が読み取れます。
事情を説明しての部分が具体的に何を指すのかは、具体的に記述してありませんが、文脈からは「三木清の獄死」であると考えるのが妥当だと思います。また、引用した部分のサブタイトルが「三木清の獄死」(53ページ右段1行目)とある事も事情が三木清の獄死の事であると考えるのが自然な流れだと思います。
「たまたま」の部分を変更せずに残したのは、あいまいな表現というより梨木作次郎と山崎早一とロベール・ギランの三者の関係が、何らかの必然性が有ったわけでは無く、梨木作次郎から見ると『偶然』知り合いの知り合いにロベール・ギランがいたことになるとも思われたので、『たまたま』=『偶然』と同じ意味として使いました。
フランス人である事に気がついたのは「私はこれまで、ロベール・ギランについてはフランスのAFP通信社の記者と思っていたのですが、どうも『ルモンド』の東京特派員だったようですね。」(54ページ右段17〜20行目)の部分当初は読み落としており、再読した際に発見したため小刻みな修正の一つになってしまいました。この点についてもお詫びします。--Earthbound1960(会話) 2016年7月22日 (金) 08:30 (UTC)
Alexander Poskrebyshev様
色々とご迷惑をおかけしている点申し訳なく思っております。 御指摘があった『占領戦後史』を拝読させて頂きました。厳密さを担保するため、引用部分を『』でくくり、引用ページと行数を引用箇所の後に()書きで記載させて頂き、私なりの回答をさせて頂きます。
まずは「たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリスト」の部分を読み、「誰ですか?」=「人」と勝手に勘違いしたのが間違いの始まりでした。
『民主化政策に本格的に着手出来るようになるのは、一〇月二日である』(101頁 9-10行目)『占領政策の米国内での批判の元になった三木の獄死(九月二六日)は、占領当局者に大きなショックを与えた。GHQは急遽、政治犯釈放、治安立法廃止、特高などの解体措置を取ることになった。』(102頁 15-17行目)にあるように、事前にジャーナリストであるロベール・ギランが独自調査で10月2日以前に三木の獄死を知っていた可能性はありますが、10月2日以前に間違いなく知っていたというわけでは無いことがこの部分より分かります。
次に『このころフランス通信(AFP)特派員ロベール・ギランもまた、ゾルゲ事件に関与して日本の刑務所に収監されていた部下のブーケリッジを助け出そうとして、政治犯の収容されている刑務所がどこかを探し廻っていた。』(105頁 13-15行目)『藤原春雄から徳田、志賀らのコミュニストが府中刑務所にいることを聞いたギランはAFP極東支配人J.マルキュース、ニューズウィーク特派員ハロルド.R.アイザックを誘って、府中刑務所を予告無しに訪問することを決意した。』(105頁15行目-106頁1行目)とあり、ロベール・ギランが独自調査をしていた事は明らかとなりますが、10月2日より前に三木の獄死を知っていたかどうかは明らかではありません。また、藤原春雄から聞いたとあり『救援運動の再建と政治犯の釈放(3・完)』にて山崎早一と記載したこと矛盾することが、分かります。
上記二点から考えると、「たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリスト」は「GHQは三木の獄死を知り大きなショックを受けた。」と書き直すのが正しいとような気がします。ただ、前出論文がある以上、どちらかの説に決めるという行為は独自研究に該当するのでは無いかという不安もあり、私には判断しかねます。
このため、過去の「たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリスト」に記述を戻した上で要出典を改めて張り直して頂いても、何ら異議は唱えません。--Earthbound1960(会話) 2016年7月30日 (土) 22:27 (UTC)
- 自分は政治にも哲学にもまったく疎い者ですが、調べてみた範囲で情報を書きます。
ロベール・ギラン#共産党員釈放に10月1日に府中刑務所を訪問したことについて記述してありますが、訪問したのは、「ジャック・マルキューズ(Jacques Marcuse)と『ニューズウィーク』誌特派員のハロルド・アイザックス(Harold Isaacs)、そしてロベール・ギラン(Robert Guillain)」で、それぞれの人物表記に揺らぎがあります。特にギランは、Giran とも Gilland とも書かれることがあります。
『救援運動の再建と政治犯の釈放(3・完)』(梨木作次郎、以下梨木証言)では毎日新聞の報道タイミングが回答がなかったとしていますが、遅くとも日本時間の10月1日です。Evening Independent (St. Petersburg Times の夕刊姉妹紙)1945,Oct,1付で、「U.S. Authorities Seek Cash Loot Seized by Japs」という1面から始まる記事の中で、2面に
The news paper Mainichi reported that Kiyoshi Miki, professor and philosopher, died in prison Wednesday and that other Japanese political prisoners, arrested six months ago without explanation, still were in jail. Another Tokyo newspaper, Asahi, said two other known Japanese liberaqls died recently in jail - Jun Kozaka, whom the news newspaper described as the "leading leftwing commentator," and one whom it did not name.[1]
とあり、三木清が水曜日(1945年9月26日を指すでしょう)に獄死したことが毎日新聞で報じられているとの記事があります。朝日新聞はJun Kozakaともう一人が投獄されていると報じたとされていますが、Jun Kozakaは戸坂潤でありましょうか。 同じ文章がThe Milwaukee Journal 1945,Oct,1付で「Yanks Hunt Japs' Loot in Seized Banking Firms」という記事の中にもあります[2]。
梨木証言p.54では、ギランは「どうも『ルモンド』の東京特派員だったよう」だと言っていますが、その後にルモンドの特派員になったのであって、1945年時点ではAFP通信記者だと思われます。終戦の和平工作と政治犯釈放のころ -山崎早市氏に聞く(1)吉田健二(2010年12月、大原社会問題研究所雑誌2010年12月号)でAFP通信記者としています。
さて、「COMITTEE ON THE JUDICIARY」(司法委員会)1951年、pp.752-753 に9月30日に府中刑務所に一度行き、10月1日に再訪した時のことが書かれています。Andrew Y. Kuroda(おそらく黒田良信の英語名[3])の英訳による記載があります。日本語で書かれたものが存在するならより良い出典となり得ましょう。
10月に府中刑務所を訪問したのが、ギランと、アメリカ人ジャーナリストとしている書籍もあります。「GHQ」竹前栄治, 1983年、岩波新書(書誌情報) の翻訳(「The Allied Occupation of Japan」、Robert Ricketts, Sebastian Swann 訳、2002年版、 p.239)に「French correspondent Robert Guillain and two American journalists」と書かれています。
なお、Earthbound1960さんが2016年7月22日 (金) 08:31 (UTC) で「事情を説明して」の事情が「文脈からは「三木清の獄死」であると考えるのが妥当」とお書きになっていますが、事情とは政治犯が府中刑務所に投獄されていると思われるので策を弄してでも調べたいということであり、獄死している可能性を承知していたとは読み取れませんでした。
当方が前提となる知識を持っておらず、整理されずに不確定な資料へのリンクを提示することで記事執筆で混乱させることになることを恐れます。が、なんらかの形で皆さんの編集に資すれば幸いです。--Benpedia(会話) 2016年8月1日 (月) 07:11 (UTC)
女性問題で京都帝大に就職出来なかったとする説に対する「異論」を加筆しました。[編集]
題名のとおりですが、三木が学生時代から京都帝大に対する不満を漏らしていたことが教授陣の耳に入り、不興を買い女性問題を口実に就職出来なかったとする説を加筆しました。--Earthbound1960(会話) 2016年7月27日 (水) 20:21 (UTC)
- この件ですが、学内で三木の女性スキャンダルが問題視されていたことを指摘している文献資料があります。下書きにピックアップしてあるので編集の際に加筆する予定でいます。現在出典が10点ほどあるので、近いうちに編集します。というか、細かな編集は止めてくれないかと書いたのですが、なぜ依然として「一か所だけの編集」をお続けになるのですか。人の話を聞かないタイプの方だったのですか。--Alexander Poskrebyshev(会話) 2016年7月28日 (木) 14:32 (UTC)
Alexander Poskrebyshev様
毎々ご迷惑をおかけし申し訳ありません。「小刻みに編集を行う」の意味を曲解しておりました。新規出典及び追加加筆で誤字脱字があったり、本来と違う引用をしてしまったり、前の版の大事な部分を間違って削除してしまったことに出典後気づき慌てて、修正を短時間で何度も加えることを「小刻みに編集を行う」事だと思っておりました。誠に申し訳ありません。決して「聞く耳を持たない人間」ではなくWikipediaのルールに慣れていないだけなので、その点はご理解頂けると幸いです。
これ以上ご迷惑をおかけしては、Alexander Poskrebyshev様をはじめとする皆様に申し訳ありませんので、以下に示す10件が現段階における私の調べた範囲の全てですので、もしも、意味がある記述であると思われたら追加加筆の参考にして頂ければ幸いです。もちろん、全て不採用でも私が何ら文句が言える筋合いの人間でないことは理解しております。 私の調査不足、知識不足でご迷惑をおかけしたのは申し訳なく思っております。三木清については当面(3ヶ月程度)調査と情報収集に努め、追加加筆致しません。Alexander Poskrebyshev様のお怒りを解くには不十分な対応かも知れませんが、これでご容赦下さい。また3ヶ月後再開する際も、ノートに事前に記載し合意形成を行ってから、追加加筆するように致します。
- 家業は農家、祖父の代に米穀をあきなったことで資産を作り、比較的裕福な家庭の子として青少年時代を送った[1]。
- 三年生になり、小林巌(中学卒業後、第六高等学校から京都帝国大学に入学し生理学を専攻、29歳で学位を獲得するも30歳で死亡)、土井申二(海軍兵学校卒業)と一緒に本間貞観(元脇坂藩の儒学者で、当時龍野中学で漢文を教えていた)の自宅に通って漢詩を習い、作成した漢詩を添削してもらっていた[4][5]。
- 五言絶句十首、七言絶句六首が残されている[6]。
- 宗教興味を持ち、キリスト教、仏教の文献をよみ、特に親鸞の歎異抄に感銘を受け、求道学舎の近角常観の歎異抄講義を聴きに通った。聴講生には聴講生には倉石武四郎もいた[11][12]。高校三年の時、みずから哲学の購読会を作り、速水滉教授にヴィルヘルム・ヴィンデルバントの『プレルーディエン』の中の「哲学とは何か」について購読をしてもらう[13][14]。
- 霞城館・矢野勘治記念館
- 館内には、龍野が生んだ現代の文化人、三木露風、内海信之、矢野勘治、三木清ら4氏に関する文献や資料を一堂に集め、展示している[18]。三木露風と三木清は親戚では無いと三木自身が読書遍歴[19]の中で記載している。
以上です。--Earthbound1960(会話) 2016年7月30日 (土) 22:29 (UTC)
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、313頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、314頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、15頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、315頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、22頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
- ↑ 三木, 清 『遺稿 日記 書簡 補遺 他』19、岩波書店〈三木清全集〉、1986年2月6日、2、3-8頁。ISBN 4-00-090899-5。
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、316頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、18頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、318頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、28-29頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、318頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、35頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、319頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、35頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
- ↑ 三木, 清 『年譜』20、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2、319-320頁。ISBN 4-00-090900-2。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、36頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
- ↑ “龍野公園:哲学の小径”. たつの市. 2016年7月30日確認。
- ↑ “霞城館・矢野勘治記念館”. たつの市. 2016年7月30日確認。
- ↑ 三木, 清 『読書と人生 読書遍歴』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、初、21頁。ISBN 978-4-06-290207-6。
Earthboud1960さんの編集について[編集]
過去の、氏の編集の動機を思い返すに、まず三木を称揚したいという意思が先にあって、そこから出典の牽強付会があったという印象が拭いきれません。そこで一度、氏が行った編集は全て差し戻しを行おうと考えています。ご意見がありましたらぜひお願いします。私は通常名前空間の編集頻度は高くなく、この項目もすぐに編集する予定はありません。自分の編集の際に、合わせて差し戻しを行おうと考えています。--Alexander Poskrebyshev(会話) 2016年10月20日 (木) 16:52 (UTC)