俵口一族

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俵口一族( )は、日本の氏族。

由来は天皇家荘園守護役の田原口一族から。

解説[編集]

7世紀から8世紀にかけて天皇家の第一番目の荘園が「田原の里」(現在の大阪府四条畷市と奈良県生駒市一帯)として整備されました。

当時、寺院等々が所有する荘園は秋の収穫の時期を迎えると野武士集団や野盗の群れに襲われて収穫見込みの半分は消失していました。

此処生駒盆地の田原の里は周囲を険しい山々に囲まれ出入りの道は1か所のみでしたので、出入り口の拠点に城を築き警護の要としました。

田原の里の出入り口であるところから「田原口城」と称されておりました。

警備は厳重を極めておりましたので、その為もあって数百年の間に何度も武装集団の襲撃を受けましたが防御を尽くして守り抜きました。

その警備の功績は12世紀まで続きました。

荘園開設当時より天皇家が新規召し抱えた警護役の武士団が守護役を担ってきました。

守護役の一族はその場所の名称から田原口何某という名前で呼ばれておりました。 12世紀の中頃に高倉天皇が即位され天皇は天皇家の所領財産について事細かく報告することをお命じになりました。

他の荘園に比べて「田原の里」の穀物の収穫量と収穫率が圧倒的に高いことをお知りになりました。

高倉天皇は「田原の里」が長期に亘り天皇家の台所の礎となってきたと確信され、田原の里の視察行幸をなされました。

天皇の荘園の視察行幸は荘園守護役の田原口一族にとっては先例もなく恐れ多いことでした。

田原の里の視察と耕作や警備の実情をお聞きになり至極感激されたのでした。

天皇は何代にも亘ってこの荘園を守り続けてきた田原口一族に所領(現在奈良県生駒市俵口町)を与え、田原口の呼び名を俵口の姓に改めるよう命じられました。

守護大名の末席に俵口一族がこの時誕生しました。

田原口城も俵口城と改められました。(参考資料/四条畷市史、生駒市史、生駒市遺跡分布調査概要/生駒市教育委員会)12世紀後半に天皇家を巻き込んだ源氏と平家の武士団の戦が起こりました。

高倉上皇の御后は平清盛の娘であり一子安徳天皇は紛れもない平家の系列です。

高倉上皇ファミリーが京都を脱出するに際しファミリーを警護しお供を買って出たのが俵口一族でした。

平清盛は瀬戸内海航路と博多を制する者が天下を握ると言っていましたが、福原(現在神戸)を拠点に安芸宮島の厳島神社と博多櫛田神社を建立し傘下に収め、太宰府庁長官として唐津(韓津/日朝貿易)を基地に南宋との間に日宋貿易、朝鮮との間に日朝貿易を推し進め多大な富を得ていました。

平家の大型船による船団は瀬戸内海を一路九州へと高倉上皇ファミリーと警護の俵口一族を載せていち早く福原の港から逃げ延びたのです。

当時の平家の大型船は宋や朝鮮と行き来する船であり船足も早く源氏の小舟では歯が立つものではありませんでした。

壇ノ浦の合戦の折には高倉上皇ファミリーはとっくに九州筑前の国の岡湊(現在福岡県芦屋町)に上陸していました。

当時天皇や上皇は人々から現人神と呼ばれており神様だったのです。

神様を武士団が殺せるはずもなく海を渡って九州へ逃れた高倉上皇ファミリーには自ら海に沈まれた事として歴史上亡くなって頂いたのです。

後世の後醍醐天皇による数回にわたる政権転覆失敗でも、武士団は天皇を死罪にしなかった史実からも状況が伺われます。

その後高倉上皇が九州各地をお訪れになった足跡が各地に残されております。(参考資料/筑前国続風土記、肥前国風土記、肥後国風土記、豊後国風土記、等々)

平清盛は多くの寺院に寄進をしていますが日宋貿易、日朝貿易の航海の無事を祈願する為、海の神様である宗像大社には特に近しく接していました。

事前に宗像大社とは話がついており高倉上皇ファミリーは宗像大社に迎えられました。警護の供をした俵口一族はそのまま宗像大社に仕えて社領地の一角(現在福岡県岡垣町付近)の守護を任じられました。

その後鎌倉幕府の追捕使が俵口一族を調べに来ましたが、俵口一族は天皇家の守護用人としての武士団でしたが、平家一門ではなかったため敗残兵の責を負うことは有りませんでした。

しかし源氏が仕切る鎌倉幕府に対して恭順の意を示すために俵口(たわらくち)を(ひょうくち)と音訓読みに呼び名を変えることとしました。

江戸期に入り、宗像大社が支配する岡県(現在岡垣町)地区の大部分の社領地は黒田藩の所領地に変りましたが、俵口一族はその封建制度の仕組みの中に組み込まれていきました。

福岡県岡垣町に由来する人物 (ひょうぐち氏)[編集]

俵口静江(故人)    福岡県遠賀郡岡垣村村長(1962年まで)、同時に町制移行後の選挙を経て初代町長を務める。

樋高(旧姓俵口)龍治  岡垣町商工会元会長、その後岡垣町元町長(2期8年、2001年~2009年)

俵口光雄(故人)    戦前戦後を通して出光佐三氏(故人、旧出光興産店主、創業者)と共に宗像大社の氏子総代を務める。

            旧遠賀郡(現在遠賀郡岡垣町、遠賀町、芦屋町、水巻町、北九州市八幡西区、同若松区、中間市)及び旧宗像郡

           (現在宗像市、福津市)のバス事業(赤神バス/当初は赤間神湊間運行)開設者/同社は後に九州合同バス会社(九

            州電気軌道会社を経て現在西日本鉄道会社バス部門)設立に際して合併参加した。

            福岡市及び福岡県乗用自動車協会会長、九州地区乗用自動車協会連合会長、全国乗用自動車協会連合会副会長。