佐野重作

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佐野 重作(さの じゅうさく、1852年 - 1911年)は、三河国渥美郡豊岡村(現在の豊橋市)出身の職人。豊橋筆製造の先駆者であり、豊橋筆が地場産業として評価される基礎を築いた。

経歴[編集]

嘉永5年(1852年)、三河国渥美郡豊岡村飯村(後の渥美郡豊橋町、現在の豊橋市)の農家に生まれた。父親は佐野清九郎であり、重作は次男だった。元治元年(1864年)には渥美郡高足村(後の渥美郡高師村、現在の豊橋市)の筆師である芳賀次郎吉に弟子入りし、14年間かけて筆の製造方法を習得した。芳賀は旧三河吉田藩藩士であり、豊橋筆の歴史において佐野とともに称えられる人物である。

佐野は1878年(明治11年)、渥美郡豊橋町(現在の豊橋市)の神明町に自身の工房を構えて独立すると、独自に開発した水練りの製法で評価を高めた。佐野は多くの弟子を取って技術指導を行い、1901年(明治34年)頃には佐野流の筆製造者が約120人にも達していた。やがて佐野は東京に販路を拡大させ、小学校の授業に習字が導入されると全国から注文を受けるようになった。1902年(明治35年)には豊橋毛筆製造組合を結成し、佐野は顧問に就任した。1911年(明治44年)に死去した。

顕彰碑[編集]

田原藩家老であり日本画家の渡辺小華は佐野の筆を愛用し、佐野の評価を高めることにつながった。豊橋市新吉町の龍拈寺には「佐野重作記念碑」がある。

参考文献[編集]

  • 本田勇夫「佐野重作 豊橋毛筆製造業の創始者」『郷土ほりおこし 東三河の歴史』
  • 西田安慶「わが国筆産地の生成と発展」『東海学園大学紀要』1996年、1号