伝われ

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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伝われ(つたわれ)とは、「伝わる」の命令形である。

インターネット上での用法[編集]

「自分の発言は言葉足らずだが、何とか意味が伝わってほしい」という願いをこめて、文章の末尾に「伝われ」と添えることがある。いわゆる「オタク構文」の一種。

類似の表現として「語彙力」がある。これは「自分の語彙力がないため、十分に表現しきれていないのですが…」と予防線を張ったもので、ニュアンスは「伝われ」とほぼ同じである。なお、「伝われ」や「語彙力」を安易な免罪符として使いまわしていると、いつまで経っても語彙力が培われないので注意。


使用パターンはさまざまだが、大きく3つに分けることができるだろう。

  1. 単純にいい言葉が浮かばなかった場合。さらっと手軽にコメントしたいので、文章を練っていないことをお断りする場合。
    • 【例文】あの、女性がよく頭につけてるフワフワしたアクセサリー、好きなんですよね(伝われ
    • オタク度は低い表現である。単に「知識の不足」を先回りして自虐しているだけであり「感情表現」とは結びついていない。連発していると、ただの馬鹿みたいに見えるので要注意。
  2. 表現する言葉が何も思いつかないほど、自分の受けた衝撃が大きいことを意味する場合。
    • 【例文】◯◯くんのライブ、本人も会場もすべてキラキラ輝いてて尊死するかと思った(伝われ
    • オタク度の高い表現である。「オタクって馬鹿なんだな」ということが周囲に伝わる。
  3. 自分の伝えたい内容がピンポイントでニッチすぎることを自覚しており、共感できる人を探している場合。
    • 【例文】日本のアイドル特有の、いつまで経っても歌も踊りもさほど上手くならず、プロセスエコノミーの「プロセス」の部分だけを引き伸ばしてコンテンツとして提供されている感じ。アレクサンドル・コジェーブのいう日本的「スノビズム」の象徴だと思う(伝われ
    • これも「用法2」とはまた違う意味で、オタク度の高い表現である。「オタクって面倒くさいんだな」ということが周囲に伝わる。


「用法2」と「用法3」は見た目が似ているものの、発言者の精神構造はむしろ相反している。

「用法2」の発言者は、「理性」では制御しきれないほどに「感性」が動かされたことを主張せんとしており、理性よりも感性を重要視して生きている(理性<感性)。言葉を失うことは、むしろ対象への関心が深い証左だと考える節がある。方向性の近いスラングとして「クソデカ感情」という言い回しもある。これもつまり、感情が大きすぎるあまり理性によって制御できないさまを、物理的な大きさ(クソデカ)で例えたものなのだろう。――複雑な表現は使わず、ただ自分の感情の大きさだけを主張することは、現在のネットコミュニケーションの大きな潮流となっている。東浩紀風にいえば「オタクが動物化している」ということになるだろう。「◯◯は言葉では表わせないほど素晴らしい」ということを通じて、逆説的に「◯◯の素晴らしさ」を伝えようとするさまは否定神学的ですらある。

一方、「用法3」の発言者は、自分の繊細な感情を咀嚼して、言葉としてアウトプットすることに意味を見出しており、「感性」と同じかそれ以上に「理性」を重要視して生きている(理性≧感性)。自分のこだわりの強さを自覚しながらも、言葉を濁して大衆に迎合することを良しとしない求道者である。

作家・平野啓一郎は著書『「カッコイイ」とは何か』のなかで、「理論的な知の教養」よりも「身体に訴えかけてくる衝撃」をもとに美・趣味・カッコよさを語る近現代の風潮を「ドラクロワボードレール的な”体感主義”」と呼んでいる。現代のネットに見られる、「用法2」のような「言葉で説明できる良さ」よりも「言語化できない身体感覚」のほうが至上である、という風潮は「ドラクロワ=ボードレール的な”体感主義”」の延長線上にあると見ることもできるだろう。
平野いわく、「カッコイイ」という感覚は身体感覚に根差すものであるため、本来「比較できない」複数のカテゴリーを、同じ俎上で語ることを可能にしている。スポーツ選手や自動車、音楽やファッションが全て「カッコイイ」という言葉で語れる事実は、改めて考えてみれば奇妙なことである。本来、それらは全く別ジャンルのものであり、共通のものさしで良し悪しを語れるものではないハズだ。この平野の指摘は、現代のオタク構文(たとえば「推し」「尊い」)にも応用可能ではないか。「推し」という言葉はいまや余りに多様な意味で使われるバズワードだ。いわく、「ジャニーズ推し」「宝塚推し」「ディズニー推し」....。しかしそれらが全て見る者/聞いた者が受けたある種の身体感覚(「身体をしびれさせる」ような「非日常性」)を総称した表現なのだと考えれば、使用範囲があまりに広大すぎることにも説明がつく。(「尊い」という表現など、まさに「身体的な」陶酔を思わせるワードではないか。宗教的な尊崇の念がしばしば身体的な快楽に通じていることは、かの有名な彫刻『聖テレジアの法悦』をわざわざ引き合いに出すまでもないことだろう。)

つまり、「伝われ」や「語彙力」のような、言語喪失による逆説的な賛美(理性<感性 的な賛美、ドラクロワ=ボードレール的な”体感主義”)と、オタク構文のバズワード化(さらにいえば「オタク」というカテゴリのバズワード化)は、表裏一体で並走する同質の現象なのではないだろうか。

古のネットスラングとの比較[編集]

古のインターネットでは、文章の末尾に

  • (←ぉぃ
  • (ぇ
  • (何
  • (殴蹴

...などと付けて、セルフツッコミをする文化があった。

もう見かけなくなって久しいが、言葉が「伝われ」や「語彙力」に入れ替わっただけで、構造自体は受け継がれているとも言える。

言語学的な解説[編集]

「伝わる」は自動詞であり、命令形は「伝われ」となる。

他動詞は「伝る」であり、命令形は「伝えろ/伝えよ」となる。