会津陣物語

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会津陣物語(あいづじんものがたり)とは、関ヶ原の戦いの際の上杉氏関係の軍記である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は杉原親清で、上杉景勝の重臣・水原親憲の親族である。なお、国枝清軒が上杉景勝を中心とする武勇を後世に広く知らしめたいという思いから校訂を加えた。

杉原親清は、会津征伐など関ヶ原の際の東北地方の戦いに関する記録がそれほど残されていないことを遺憾に思った酒井忠勝若狭国小浜藩主)から命じられて関連の古事を収集して筆記したのだという。

成立年代は延宝8年(1680年)なので、恐らく杉原の書いたものの成立ではなく、国枝が校訂を加えた時期の成立年だと思われる。別称は『会津軍記』(あいづぐんき)、『会津軍物語』(あいづぐんものがたり)。

内容[編集]

全4巻。

会津征伐から物語は始まるが、石田三成直江兼続の東西共謀説を肯定している。家康が詰問の使者を送ると、直江は家康に反論する書状を送った。会津征伐が始まる。関ヶ原の東北関連の史料は最上氏関連のものが多く、特に直江は愚劣な大将として描かれることが多いが、この著書はそもそも上杉氏の武勇を世に広めたいという目的があるので、直江の策略で伊達政宗片倉景綱が苦戦を強いられたなどと史実と全く異なることが書かれている。さらに、徳川家康が白河口から会津に侵攻してくるならば殲滅できたが、「御運や強かりけん」家康は石田が上方で挙兵したため西に撤退することになったので命拾いしたように書いている。

直江は緻密な名将として書かれており、万一西軍が敗れた際の手配や慶長出羽合戦での撤退の奮戦ぶりなどが描かれている。また、史実で長谷堂城攻めで醜態を晒したようなことは一切書かれておらず、むしろ長谷堂城を落としてから撤退しようとしたなどとまで書かれている。

戦後も上杉景勝は容易に家康に降伏しようとはせず、家康はこの上杉の行為を全て直江によるものと見なして、上杉という名門が断絶することを惜しんで赦免したとされている。上杉氏と伊達氏の戦い、越後一揆などの情勢なども詳しく書いているほか、編集を依頼した酒井忠勝の評価まで加えており、後代史料だが箔付けを特に強く行なっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]